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『壁』安部公房

ひとり安部公房祭 第ニ回『壁 』

はじめに

本書は三部構成で《壁》モチーフにしたそれぞれ独立した物語で構成されている。
第一部
Sカルマ氏の犯罪
第二部
バベルの塔の狸
第三部
赤い繭


第一部の『S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞を受賞したのは周知の通りだろう。
序文として付された#石川淳 の文章が秀悦でもある。

僕は以下の三作品が好みだ。
・『S•カルマ氏の犯罪』
・『赤い繭』─赤い繭
・『赤い繭』─魔法のチョーク


今の僕と変わらない歳でこれらを書き上げた27歳の安部公房。

シュールさが際立っていて安部公房ワールド全開でいい。 非常に好きだ。

壁とは何なのか

実存の対象をホモ・サピエンスのみに限定するなら、壁は内在/外在的自己の存在そのものの総体の象徴かもしれない。 
理想や現実、あるいは無意識の意識を投影するものであったり、何かと何かを結びつけたり境界としたり、障害あるいは打ち壊すあるいは避けてとおるものの総体の象徴ともいえよう。

S・カルマ氏の犯罪

今回は第一部のS・カルマ氏の犯罪をどうしても取り上げたい。

「しかし、右の眼と左の眼とではちがったものに見えるなんて随分滑稽なことだ。おそらくマルクスの影響に違いない。」
『壁』安部公房 第一部 S・カルマ氏の犯罪 新潮文庫 p22

物語は名前と実体が分離した主人公の男の話である。男の世界は以下の通りである。

右の眼(実体)で世界を観ると有機物を主体としての世界
左の眼(名刺)で世界を観ると無機物を主体としての世界。


また、いくつかのテーマをこの物語は持つ。

・二項対立を突き詰めたがり、パラドクス的だが、対立関係全てを包含するのが「ヒト」である
・《名前》の使命とその崇高さ
・内在的存在の真実、世界の深淵

など。
こうした諸々のテーマがかなりシュールに描きこまれており、これは27歳だったからこそ書けた世界だろう、と僕は思う。

グロさ的には本当は赤い繭を取り上げたいがわかってもらえるひとがどれくらいいるだろう。

蚕を飼いたい───以前からの僕の夢のひとつなのだが───繭を半分に割り、蚕の幼虫がドロドロになってメタモルフォーゼしあの愛らしいモスラちゃんになるまでの過程を実際にこの目で確かめ、モスラちゃん、いや繭子───繭子と名付ける予定───を指に乗っけてぷにぷにのお腹を触ってみたい。
理由はただそれだけである。

自らの壁を作るために肉体を使って赤い繭に閉じこもるというのは、繭からの主観だが、僕は客観的にその様を見届けたいのだ。

「S・カルマ氏の犯罪の感想じゃないじゃん」と思われるかもしれない。
けれど、僕のこの性癖をまず踏まえないと、なぜS・カルマ氏の犯罪が僕の心の琴線に響き渡るのかおそらく深く理解してもらえないので、この説明を先にさせてもらった次第である。

分裂から再統合する

あらゆる事象というのは二項対立的に見えても実際には《主体》と《客体》と言った具合に視点を変えただけのことでもある。
そのため、僕は「二項対立的なものはほとんどが曖昧な境界線で、共通部分を何かしら持っている可能性を秘めている」と考えている。
右の《実体──あるいは統合コントロール部》
左の《名前》
物語の裁判で裁判続行不能となったように、この両者は互いにバラバラでは他者から存在を承認されない。

本書の左眼の世界に属する「無機物」は全てに実際には他者から「ラベル」≒《名前》が授けられている。
そして、それによって右眼の世界に属する「有機物」≒実体の存在を他者に明らかにしたりしている。
例えば、物語の中で《名前》を呼び続けるカルマ氏の愛した女、《Y子の実体》。

愛するひとから《名前》を呼び続けられることで、カルマ氏は右と左をかろうじて失わずに済んだのではないだろうか。

これによって、カルマ氏は《世界の果》を垣間見る契機を掴んだのかもしれない。

こうして考えると、やはり、僕は《名前》の崇高さを感じずにいられない。

だから、僕は蚕を妻が──今のところ可能性は極めて低いが──「飼って良い」と許可してくれたら、「繭子」と名付けるのだ。

また、《壁》には影が投影されたり絵が描かれたりもする。
自らの肉体とあらゆるラベルを道連れにして僕らは常に他者に引きちぎられ、食いちぎられ、踏みつけにされ、適当に嫌味をらぶちまけられ、のけものにされ、ぐちゃぐちゃのぎたぎたにされながらも、再統合していく。
その再統合は、他者のまなざしを通してしかできない。ひとりでは決して再統合できず、食いちぎられて踏みつけられて分離した後、ひよって孤絶してしまうと、モスラにはなれずドロドロのネバネバした汚らしく気持ちの悪い液体でしかない。しかもそのうち干からびて、塵と化す。

つまり、
「繭子の分離、あらゆる細胞が分離しドロドロの液体になり、いかに再構築されてゆくのか……。僕がいなければ繭子はモスラになれない」
ということである───僕は見届けて、愛する繭子をぷにぷにしたい。

アプリオリな蚕の成虫のお腹のぷにぷに感を実感したとき、僕はまたひとつ《世界の果》、すなわち、僕の実存の総体の一部を発見するかもしれないのだ。

カルマ氏の内在的自己、《彼》はメタモルフォーゼしたのか?

無機物と有機物との再統合、名前を取り戻す可能性を秘めたのを《僕》が見届けようと必死になった。
その結果、《彼》はカルマ氏の実存の総体として壁へとメタモルフォーゼした、と僕は解釈した。
そうして、《僕》は世界の深淵、曠野の砂漠に一筋の線をつくり続ける《壁》を見出したのだろう。

個と社会、社会と国家、国家と世界の壁

繭子の分離から再統合を見届けて僕が「繭子」と愛をこめて呼びながらお腹を愛撫する。

分離から再統合を投影する壁、分離から再統合する事物そのものとしての壁、さまざまな様相の壁。これら統合的な実存としての壁は個と他者あるいは社会、社会と国家、国家と世界との関係性にも通じる。

異なる社会の中で全てのラベルがむしり取られたとしても、今のところ、《名前》の存在はアプリオリである。
愛を込めて《名前》を呼ぶ≒相手に自分を閉ざすのではなく開くだけで、何かしらのギャップや求められていること、求めることの輪郭を共有し新たな何かにそれぞれがメタモルフォーゼし合える、かもしれない。

無機物と有機物の総体としての壁と言葉の関係を考えてみた

言葉は感情表現や円滑なコミュニケーションや建設的批判あるいは理性的に批判し合うことで次の何かを互いに生み出す為の「道具」であり「精神」でもある。
これは「無機物」と「有機物」の中間にあたる。
ところが、誰かを揶揄したり中傷したり陥れる攻撃のための武器にもなりうる。
その場合はブルシットなエレガント──見掛け倒しの(知性、文明的あるいは消耗的)何か──を振りまいて取り繕ったところで一瞬にして「有機物」である「実体」の「壁」のメッキが剥がれ落ちる──Y子のように。

分離状態の溜め込んだ知、言葉をどう再統合してゆくかで、実体の本質的な知性と慈愛の深さが変わるだろう。

言葉のみならず、有機と無機物は物によっては一心同体であり、その総体を形成する要素の組み立て方は分離状態から再統合までの過程をきちんとうまくやらなければ様々な不条理を生み出すか、何も生み出さないかのどっちかだ。

言葉、知識、というのは摩擦ではなく互いを認識し合うコミュニケーションのための《無機物》的に言うならば道具であり《有機物》的に言うならば肉や血でもあろう。
それらをバラバラの分離状態から再統合する過程でいかに客観的でいられるか、あるいは、他者に建設的批判してもらえるか、が重要でもある。
スターリニズム的マルクス主義的弁証法では科学優先のため分離から再統合の間に、「人間」そのものが省かれる。
それでは全く再統合の意味を成さず、蚕の繭子もメタモルフォーゼの途中でドロドロのまま腐っていき、真っ黒な「死んだ有機物」へと変化するだけだ。
社会や歴史が人間を作るのではなく人間個々が社会や歴史を作るようサルトル的実存哲学で補完できれば繭子も極めて「人間主体」の「人間らしい」(人間主体へのアンチテーゼ的意味で)蚕へと再統合される、かもしれない。

僕は以上のように思う為、『壁』には共感しかない。

おわりに

「ここでひとつ注意していただかねばならないことがあるのです。それは、地球が球体であるということによって世界の果に附け加えられた今ひとつの重要なる性質についてであります。すなわち両極という概念……お分かりでしょうね。北極と南極との関係がそのいい例です。したがって、世界の果も自然二つのポールの弁証法的統一と考えざるをえなくなる。これを具体的に申しますと、つまり、みなさんの部屋もそれに対立する極としての世界の果を発見することによって、はじめて真の世界の果たりうるというわけなのであります。そこでわれわれは次のような哲学的意味附を要約しうるでありましょう。すなわち、世界の果に旅立つものは、単にこの世界から脱出するものであるのみならず、同時に、この二つのポールを結びつけるという重大な使命を帯びた使者である……あるいは、自己をメッセージとして自己に贈り届ける使者である!」
(中略)
世界の果への出発が壁の凝視にはじまることには変わりないということ、そして旅行くものはその道程を壁の中に発見しなければならぬということ……
『壁』安部公房 第一部 S・カルマ氏の犯罪 新潮文庫 p127-128

他者のまなざし──物語の中では《僕》やY子のまなざしや呼びかけ──を通して、自己の内在世界《彼》、すなわち実存の総体の成長を描いているように思えた。個と社会についても同様に当てはめられる点もあるかもしれない。
ナンセンスを炸裂させながらサルトルの弁証法的理性批判風なことを小説でやろうとしたのだろうか。そんな風に少し妄想した。

安部公房は実にキレるひとだなぁと思う。

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