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『放射線のひみつ』放射線と向き合う知恵を授けてくれる一冊

私たちは2011年3月11日、東日本大震災と福島第一原発事故によって、放射線という目に見えない脅威と向き合うことになりました。テレビや新聞からは聞きなれない「シーベルト」や「ベクレル」といった単位が飛び交い、放射線への不安は日に日に募っていきました。

そんな中で出会ったのが、本書『放射線のひみつ』です。著者の中川恵一氏は、東京大学医学部附属病院で放射線治療に従事する医師であり、がんの放射線治療について一般向けにわかりやすく解説した『がんのひみつ』の著者でもあります。

本書の特徴は、放射線について素人にもわかりやすく、かつ正確に伝えようとしている点です。例えば、放射線と放射能の違い、被ばくの種類、自然界に存在する放射線など、基本的な事項から丁寧に解説しています。

中川氏は、放射線について語る上で欠かせない「言葉」の意味から説明しています。「被ばく」と「被爆」の違い、「放射能がやって来る」という表現の誤りなど、メディアでもよく見られる混同しやすい言葉の使い方を正していきます。

こうした基礎知識を踏まえた上で、放射線の単位についての解説が続きます。ここでは、放射線の人体への影響度合いを表す「シーベルト」、放射能の強さを示す「ベクレル」、物質が受けた放射線の量を表す「グレイ」といった単位の意味や使い分けについて、図表も交えてわかりやすく説明されています。

難解な放射線の単位も、たとえ話で理解できる

特に印象的だったのは、放射線の単位について「ロウソク」や「花粉」を使ったたとえ話で説明している部分です。

放射線・放射能・放射性物質の関係は、ロウソクが「放射性物質」で、火がついている状態が「放射能あり」の状態です。そこから出てくる 明かり(光)が「放射線」です。

放射線の影響は、「花粉」をイメージするとわかりやすい。放射性物質から出る放射線は、「光」を出す特殊な「花粉」のようなもの。原発事故で飛散した放射性物質は風に乗って拡散し、雨に溶けて地上に降り注ぐ。土壌や建物に付着したり、呼吸や食事から体内に取り込まれたりする。放射線の防護対策は「花粉症対策」に似ています。

このように身近なものに置き換えて説明することで、シーベルトやベクレルといった単位の意味も、私たち素人にとってぐっと身近なものに感じられるのです。

放射線はどこにでもある

本書を読んで驚いたのは、放射線が私たちの生活環境の中に常に存在しているという事実です。宇宙から降り注ぐ放射線、大地から出る放射線、ラドンなどの空気中の放射性物質、食品に含まれるカリウム40など、私たちは日常的に放射線を浴びています。

世界の平均で、自然放射線による年間被ばく量は2.4ミリシーベルトにもなるそうです。さらに、日本の場合は地質の関係で自然放射線量が高く、平均で年間約1.5ミリシーベルトの被ばくがあるとのこと。

また、医療被ばくも私たちにとって身近な放射線源です。胸のレントゲン検査で0.05ミリシーベルト、CT検査では数ミリシーベルトの被ばくがあります。

つまり、私たちは福島第一原発事故以前から、放射線と共に生きてきたのです。中川氏は「お億年間、生物は放射線の中で生きてきました」と述べています。過度に恐れることなく、正しく放射線と向き合っていく必要があるのかもしれません。

正しく怖がるために

とはいえ、放射線の人体への影響を無視するわけにはいきません。本書では、放射線が細胞のDNAを傷つけ、突然変異や発がんを引き起こすメカニズムについても解説されています。

ただし、それは高線量の放射線被ばくによる影響であり、100ミリシーベルト以下の被ばくによる発がんリスクの上昇は証明されていないことが強調されています。広島・長崎の原爆被爆者の疫学調査でも、100ミリシーベルト以上の被ばくで初めて発がんリスクの上昇が統計的に認められたのです。

チェルノブイリ原発事故でも、放射性ヨウ素による小児甲状腺がんの増加以外に、明確な健康被害は確認されていません。一方、スリーマイル島原発事故では周辺住民への健康影響は認められなかったそうです。

もちろん、だからと言って安易に放射線被ばくを容認していいわけではありません。ALARA(as low as reasonably achievable)の原則、つまり「合理的に達成できる限り低く」被ばく量を抑える努力は必要不可欠です。

しかし同時に、必要以上に放射線を恐れるあまり、健康診断を受けなかったり、物流が滞って生活必需品が不足したりといった「負の影響」も考慮しなければなりません。

リスクとの賢い付き合い方

放射線防護において重要なのは、「リスク」と「ベネフィット」のバランスをとることだと中川氏は述べています。

原発事故からの復興のために、ある程度の放射線被ばくは甘受せざるを得ない場面もあるでしょう。一方で、そのリスクを最小限に抑えるための対策も怠ってはなりません。そのためには、放射線のリスクを科学的に評価し、冷静に判断することが求められます。

本書では、そのための考え方として「防護方策の最適化」と「防護方策の正当化」という概念が紹介されています。前者は、放射線被ばくによる不利益と、防護対策に伴う経済的・社会的負担とのバランスを取ること。後者は、防護対策の便益がそのリスクを上回る場合にのみ、対策の実施を正当化することを意味します。

つまり、ゼロリスクを追求するのではなく、リスクとベネフィットを冷静に比較考量し、最適解を選択していく姿勢が重要だというわけです。

原発事故から学ぶべきこと

福島第一原発の事故から10年以上が経ちました。私たちは、この惨事から何を学び、どう生きていけばいいのでしょうか。中川氏は次のように述べています。

今、私たちにできることは、この事態にどう向き合うか、そして、この経験をどう活かすか、という大切なテーマについて、みんなで考えることだと思います。

原発事故がもたらしたのは、放射線被ばくの問題だけではありません。突然の避難を余儀なくされ、住み慣れた土地を離れ、分断されたコミュニティ。失われた日常と、取り戻すことのできない時間。

そうした苦難に向き合いながら、なおも前を向いて生きようとする福島の人々の姿に、本書を読みながら私は心を打たれました。

おわりに

『放射線のひみつ』は、私たちに放射線とどう向き合うべきかを考えさせてくれる一冊です。放射線に関する正しい知識を得ることで、私たちは不安に振り回されることなく、冷静に行動することができるはずです。

また、本書はリスクとの向き合い方についての示唆に富んでいます。ゼロリスク社会は幻想に過ぎません。重要なのは、目の前のリスクを正しく認識し、ベネフィットとのバランスを考えながら、賢明な選択を行うこと。それは放射線被ばくの問題に限らず、人生のあらゆる局面に当てはまる指針と言えるでしょう。

原発事故から10年以上がたった今だからこそ、私たちは改めてこの問題と向き合う必要があります。事態の風化を防ぎ、教訓を後世に伝えていくためにも。『放射線のひみつ』は、そのための格好の入門書となってくれるはずです。


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