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小石を投げてみること|阿久津隆

ブックストア・エイド基金運営事務局のスタッフが、個人的な思いを書いていくシリーズです。今回は、本の読める店fuzkue店主の阿久津隆です。


東京の初台と下北沢で、「本の読める店 フヅクエ」という、読書に最適化された環境で本を読む時間を過ごしていただくための店をやっている。

『読書の日記』『読書の日記 スープとパン 本づくり 重力の虹』という2冊の日記本を出している。6月あたりには『本の読める場所を求めて』の刊行も予定している。

本を読むのが大好きだ。

そんなわけで、「本を読む人たちがお客さんである店の店主であり、著者でもあり、そしてなによりも読書が好きな者です」というのが僕のプロフィールのほとんどすべてだ。

今回ブックストアエイド基金の立ち上げに参加したのは、3つの立場それぞれから、「嫌だ」と思ったためだった。僕を動かしたのはもっぱら、嫌だ、という強い否認の感情だった。


本の読める店の店主として

本の読める店は、本を読んで過ごす場所だ。そうすると、やってくる方は、それぞれどこかで買うなり借りるなりした本を持ってくる。いろいろなお店のブックカバーやビニール袋を見かける。お、あそこで買ってきたんだな、みたいに思うとき、なんかこれテンションが上がるんです。
多分、今ここ初台という点に、具体的な書店というもうひとつの点が打たれて線になって、そこに一気に時間が流れるからだと思う。
あの本屋さんでいろいろ考えながら買って、読むぞ読むぞと思ってここに着いた。そのワクワクしたソワソワした時間が書店のブックカバーやビニール袋の情報だけでうわっと立ち上がってくるあの感じ。その時間の喜びを知っている者として、テンションが上がる。
それで、考える。想像の手が伸びる。もしどこかの書店がなくなってしまったら、フヅクエに来てくれる人たち、来てくれるかもしれない人たちが悲しむことになりうる、ということを考える。どこかの書店がなくなったとき、本当だったらそうしたかった「あの書店で本を買ったその足でルンルンしながらフヅクエに向かう」ということが奪われた人が生まれうる、ということを想像する。なんかそんなのって、悲しい、嫌だ、と強く思う。


著者として

発売されたらあの本屋さんではどんなふうに置かれるだろうかと想像することはあっても、置く場所がなくなったら出した本はどうなるんだろうなんていうことは、考えてみたこともなかった。
『読書の日記 スープとパン 本づくり 重力の虹』は3月に出たばかりだ。出たばかりのあの子は今、どこで、どんな思いをしているんだろう、と思う。
6月あたりに刊行しようとしている本についても、編集者の方と話しながら、こんな状況で、いったいいつ出すのがいいんでしょうねとなっている(まずは僕が原稿を仕上げることだが)。
本屋がないと著者なんて存在しえないんだ、と初めて知った。
僕はでも、専業の書き手ではないからまだいいかもしれない。文章を書いて、本をつくって、それで食べている人たちのことも思う。もし僕が敬愛する書き手やつくり手の人たちが、売る場所が細ることで、出版の機会を奪われたり、部数を減らされたりして、結果、仕事として成り立たなくなってしまったら? と思うと、そんなことはめちゃくちゃ嫌だ、と思う。


読書が好きな者として

先日とても久しぶりに書店という場所に足を踏み入れた。棚に囲まれながら、何を見るでもなく突っ立っていたら、勝手に涙があふれて止まらなくなった。知っていたつもりだったけれど、こんなにもこの場所での時間を必要としていたのだな、それを奪われていたのだな、と痛烈に実感した。
本屋さんの中にいる時間は僕にとって深呼吸の時間で、疲れたとき、やるせないとき、苦しいとき、救いを求めるようにあの場所に向かう。ただあの場所に入って、本に囲まれて、深く息を吸う。その時間が絶対に必要なときが多々ある。目当てのものが何もなくても、滞在できる時間がほとんどなくても、ただしばらくうろうろする。それだけで取り戻せるものが確実にある。僕が生きていくためにあの空間は間違いなく必要だ。
もしこんな場所がなくなっていくとしたら、もうなんていうかめちゃくちゃ嫌だ。

4月に入って、書店を営む身近な人たち何人かと話をしてみると、僕が想像していた以上の近いところに危機があった。普通にそれ、まずいじゃん、と思った。そんなのは、あまりに嫌だ、と思った。
自分にできることは何かないのか、考えた。具体的に目の前にいるその人たちに僕個人、僕一人ででやれることを考えてみると、思いつく案のその弱さ、意味のなさに、びっくりした。
でも、そう思う人が、一人だけではなかったとしたら?

僕の基本的な思考は、僕がそう思うんだったら同じように思う人はわりとたくさんいるはず、という、自分の平凡さへの自覚、世界への信頼みたいなものがベースになっている。
僕が、こんなふうに、嫌だ、と思うんだったら、同じように嫌だと思う人はけっこう、たくさん、いるんじゃないの?
もしそれが大きなかたまりになったら、意味のあることにだって、なりうるんじゃないの?

そうは言っても、どうやって、としばらく考えていたら、ミニシアターエイドが立ち上がって、3日で1億円をかき集めていた。
本屋さんでもできないだろうか。でも、どうやって。僕みたいなネームのバリューもない存在がそんなことを始めてみたところで、きっと何にもならない。でも、できることもきっとある。小石を投げてみることだった。

その先のことは運営事務局の一人である内沼さんのnoteに書かれているので割愛します。ひとつだけ言えることは、具体的に、そしてまたたく間に動き出してくれた人たちがいたから今のプロジェクトがある、ということで、僕だけだったら決して何もできなかった。


最後に、本屋さんと同じく、店というものを営む者として、僕個人が特に感じる基金の意義について書いて終わりにする。
先日、フヅクエでは「いつか行くフヅクエ券」というものを発売した。
https://fuzkue.com/entries/928
今フヅクエにできること、今フヅクエに行きたいと思ってくれる人に喜んでもらえること、そしてフヅクエの運営も利すること、つまりウィン&ウィンなこと、その答えのひとつがこれだった(思いついたときは「天才!」と思ったが先行する事例はいくつもあった……)。
ともあれ、初台も下北沢もほぼ休業、限りなく売上ゼロ、という日々を生き続けている中での発売だったが、ありがたいことに4月は、固定費にして約1.5ヶ月分、フヅクエという小さな店にとってはかなり大きな売上になった。大きな、大きなお金だった。
この売上が目の前に立った様子を見て全身が感じたのは、考えるための時間が与えられた、ということだった。お金があると、考えられる。素早い動きも必要だが、同じだけ、考える時間も必要だ。
恐怖が生むのは反射であって思考ではない。恐怖は思考を止めようとしてくる。逼迫すればするほど、恐怖が大きくなればなるほど、判断は危ういものになりやすいと思う。店という場を持つということは、時間がただ経過するだけで流れ出ていく大きな出費があるということだ。それは恐怖だ。その恐怖を和らげられるのは、はっきりと、お金だ。

このクラウドファンディングが、少しでも多くの本屋さんに少しでも多くの時間を与えるものになれば、と思っている。
同じように思ってくださる人には、ご協力とご応援を乞いたいと強く思います。


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