言語哲学史最大の問題点

20世紀英米言語哲学の初期、具体的にはフレーゲとラッセルから始まる言語哲学に関して、最大の問題点は、この二人が数学の意味論から始めた点にあると思う。彼らは数学の哲学から出発し、論理学的手法を開発し、それを自然言語に適用しようとした。しかしながら、数学と自然言語とは、以下に書くように根本的に異なる。

まず、数学に現れる表現の意味は、公理つまり規則によって完全に定まり、それに尽きる。例えば「2」のような数でも、関数のようなより抽象的な対象でもよいが、その時「対象」と言われるものは、チェスのキングやクイーンなどと同様、規則の中の役割の担い手のことである。つまりそれらは役割の名前に過ぎない。
一方、自然言語の、例えば「花」や「月」や「ジョン」の対象は、名前以前に、つまり言語以前に存在する対象である。「日本」や「Google」だって、規則や辞書的記述で定義されているわけではない。
数学と自然言語はこれほど違うのだから、数学の意味論をベースにして自然言語の意味論を始める時点で無理がある。

大雑把にいえば、数学の言語を支配する最高原則は「論理」であり、それに対し自然言語を支配する最高原則は「会話の協調原則」である。
この点で根本的に別物なのである。

もちろん自然言語も、文法や語彙(レキシコン)の規則、つまり統語論および辞書的意味の規則に従う。これらは会話当事者含め人々に共有される慣習的規則である。しかしご承知のように、これらの規則は機械的自動的に適用されるものではない。一般論として、規則には常に適用条件がある。数学の場合、それは明示されていようがいまいが事実上明確で、適用可否に関し不一致が生じない。しかし自然言語に関してはそうではなく、常識の中に暗黙に埋もれており、また多くの場合デフォルト規則でしかなく、状況に応じてその都度判断が必要である。そしてコミュニケーションでは、話し手がどの慣習的規則を利用しようとしているのか、その都度判断が必要である。

自然言語では、慣習的規則(文法や意味論的規則)はもちろん不可欠ではあるが、しかしそれでも副次的存在に過ぎない。人類史的にもヒト個体の言語習得においても、そして大人の言語理解においても、語用論(pragmatics)が、統語論(syntax)および意味論(semantics)に先行する。
つまり自然言語は語用論主導である。

例えば、誰かが何かを投げる、というような出来事を伝達しようとするとき、文法(語順や格標識などの規則)がなければ動作主体と動作対象の区別がつかないか、というと、確かにそういう場合もあるが、たいていはそうではない。文法を知らない幼児や外国人が片言で単語を羅列しても、言いたいことが何とか分かったりする。
もちろん文法は、伝達したい内容の複雑化抽象化などに対応して、コミュニケーションの必要に応えて歴史的に発達してきた。しかし実のところ、本来の意味的必要性を越えて(場合によっては無関係に)様々な強制を加えてくる。例えばドイツ語の男性名詞女性名詞の区別のようにである。
やっかいなのは、文法はその種の規則も含めて、違反すると強烈な違和感を生じるということである。それにより文法は過大評価されやすい。

例えば飯田隆さんの『日本語と論理』という本は、そのような過大評価の産物だと思う。彼は量化表現のマニアなのかもしれないが、実際の所、文法に複数形や冠詞があろうがなかろうが、会話では語用論主導で必要十分な情報を伝え、厳密さが必要な場面では明確化のための表現を追加する。日本語では「公園に子供がいた」(風景記述)のように単数複数区別が重要でない場面では明示しないし、区別が必要なら「1人」「3人」「たくさん」などを追加する。一方英語は区別明示が強制される。このように、日本語と英語で異なるのは意味論的に恣意的かつ幾分冗長な文法的強制の形だけであり、伝達内容およびその意味構造そのものに大した違いがあるとは思えない。

多重量化を扱える論理学を開発したのはフレーゲの文句なしの業績だが、それは数学的業績であって、自然言語意味論の業績ではない。数学では量化は際限なく複雑になりうるので論理学は不可欠であるが、自然言語は語用論主導であり、論理への言及は複雑な議論を整理する手段の一つに過ぎない。自然言語では、「誰もが誰かをねたんでいる」(言語哲学大全Ⅰの事例)のような多義性含みの分かりにくい表現は、少なくとも孤立した形では使われることはない。逆に言うと先行する発話から自然に理解できるなら使われるし、そうでなければより具体的で誤解のない表現が選択される。例外は、分かりにくい表現を意図的に駆使して論証を通そうとする哲学者ぐらいだろう(言語哲学大全Ⅰでは「神の存在証明」の事例が紹介されている)

自然言語の、例えば「かっこいい」という表現は、どのような意味論的規則によって理解されるようになるのか。かっこいい対象を指さしたとして、その対象のどの側面を指していると分かるのか?こういう表現が習得・理解できるのは、結局、会話当事者が非常に多くの状況理解と感受性を共有しているからで、まさに誰でも「かっこいい」と言いたくなるような場面で使われるから分かるのだと思う。これと同様に、子供が最初に覚えるような基本的な言葉の多くは「より基本的で簡単な言葉を使って教える」ということができず、また指さしで教えることもできない。例示不要と思うが「悪い」「忙しい」「強い」「困る」「まだ」「かなり」「心」など皆そうである。そして大人や各種専門家が使うようなより高度な言葉の理解も、最終的には基本的言葉の理解の上に成り立つ。言語使用の高度化は、単に組み合わせの複雑化ではなく、基本的言葉がより多くの意味領域に拡張的に適用されることで実現している。例えば「高い」は山にも気温にも値段にも適用され、自然に理解されるが、このような理解が可能なのは、先ほどいった「感受性の共有」に加え、注意の焦点を共有するというような認知的協調能力に関して、人間が遺伝的に特化して優れていることによる。

「会話の協調原則」(元はグライスの用語)とは、「話し手の言葉には必ず聞き手にとって関連性のある(短期的長期的に意味のある)情報を含み、その際聞き手の言語能力や認知状態を配慮し、話し手が最適とみなす表現が使用される」というような、協調的会話状況に対するデフォルトの期待であり、これこそが人間の言語習得および言語理解の中心にある。言語はそのような協調本能および能力の上に成り立っているのであり、論理の上に成り立っているのではない。

このような語用論中心の考え方は、もちろん後期ウィトゲンシュタインに由来するが、最近はさらに進化論的枠組みと連携する形で支持を拡大しているようで、この方向性でいい本も増えていてとてもうれしい。(ちなみに最近の本では、トム・スコット=フィリップスが代表的で、個人的には異常に面白かったし、著者の頭の良さに驚かされました。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?