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【具体例】表現規制界隈で話題のブログ記事『女体だーい好き!こそオタクとこの社会の本音である!』にみる立論の問題点

  ツイッターで『女体だーい好き!こそオタクとこの社会の本音である!』なるブログ記事が流れてきて、なんとなくクリックしてみました。読んでみたら「あー、これは典型的なアレだわ」となったので、ツッコミを入れながら紹介し、議論術講座の足しにしていこうと思います。

 ではよろしくどうぞ!


「事実」は認めるけれども?

 まず、筆者は直近の話題である「宇崎ちゃん献血ポスター」を含めたいくつかの表現物を引用したのち、ブログ記事で次のように述べている。

 このポスターや今までこのブログでも取り上げてきたポスターなどを見ていて確実にいえることはひとつあります。
 それはオタクが「女性の肉体が好き」であり、現実社会においても女性の水着やセミヌードのポスター、グラビアが乱立しまくっていることから『オタクっていうか世間の男は女性の肉体が大好きであり、昔も今も女性の肉体の写真やデフォルメした女性の記号を衆目集めやモノを売るために利用してきた』という身も蓋もない現実」です。
 こういうポスターを「表現の自由」というフレーズで擁護するオタク共や評論家さんたちにいいたいのは「皆さん、表現の自由がどうこううるさいけれどもこのポスターとかアニメの巨乳キャラたちを通じて表現したいものは何ですかい」という疑問です。で、たぶん僕のその問いについてまともに答えようという人はいないでしょう。これを突き詰めたら以下の本音を認めざるを得ないから。僕は優しいからそんなチキンな奴らに代わって言ってやる。
「俺たちオタクや男は女の肉体だーい好き!今までもこれからも女性の胸やお尻を使い世間で堂々と流通させたい!合法的に流通させて合法的に女性の肉体を眺めて楽しみたーい!」
 だからそこに異を唱えてくる奴らは邪魔!なんでしょう。

 まず見逃したくないのは、「表現の自由」というそれなりの重要性と歴史をもつはずの問題が、「どうこううるさい」のたった一言で切り捨てられていることである。大丈夫なのか、それは、と心配になってしまうところだ。

 しかしながら、事実が述べられていることは認めなければならない。たしかに我々は平生より表現の自由がどうこううるさい連中である。また女性に関する記号を衆目集めやモノを売るために利用しているのも単に現実だろう。そして、そのことを、これまた確かに表現の自由の観点から擁護もしている。今後も「女性の胸やお尻を使い世間で堂々と流通させたい」し、また「合法的に流通させて合法的に女性の肉体を眺めて」楽しみたいと考えている。まったくもってすべて事実だ。


思考実験:逆の立場から「事実」を述べてみる。

 しかし、ここで気になるのは、たとえば私が「一部のフェミニストやそれを擁護する連中は、性的搾取がどうこううるさいが、不愉快に感じるものを追い出し、他人の表現する自由を奪いたがっているだけで、開かれた社会のために『表現の自由』を守ろうとする奴らは邪魔なのだ」と書いたとき、当該記事に共感的な人たちがどう考えるかである。

 やはり、ひとまずは「どうこううるさい」であっさり切り捨てられた「性的搾取」がきわめて重大な問題だと言いたくなるだろうのではないだろうか。そして――こちらが本題だが――「不愉快に感じるものを追い出し、他人の表現する自由を奪いたがっている」「開かれた社会のために『表現の自由』を守ろうとする」といった罵詈雑言と美辞麗句のあわせ技には何か問題があると感じるのではないか。

 たしかに「不愉快に感じるものを追い出し、他人の表現する自由を奪いたい」というのは、文字通りに読めば事実ではある。たしかに不愉快なのだろうし、ポスターを取り下げてもらいたいと考える以上、「自由を奪う」と表現されてもその点について否定はできない。むろん犯罪者を拘束するように、自由を奪うことが「やむを得ないこと」と正当化される場合はあるかもしれない。しかしその場合においても、「自由を奪っている」という事実要件が否定されるわけではない。すなわち、事実性については争えない。

 かくして、「事実であるかどうか」ということを基準に判断すると、考えうる限り最大に対立するはずの話がまったく同じ評価になる。どちらも別に虚偽は述べていない。はい引き分け。お疲れ様―――というわけには、さすがにいかない。note記事にする意味がなさすぎますからね。


事実の「名付け」「表現」には意見が含まれている

 名付けや表現はどのようにしても構わない。それはもちろんそうである。しかし、たとえば私が「人工妊娠中絶」を「子宮内殺人」と呼んだら、どういうことになるだろうか?

 どちらも現実に指している行為は同じである以上、虚偽だとは言えないだろう。だが、「子宮内殺人」という言葉には、それ自体で「やるべきでない」という意見としての性質が充分に含まれている。そして意見として見たとき、必ずしも正しいとは限らず、事実であるかとは別に、「やるべきない」とした根拠と論証が当然求められる。
 もし人工妊娠中絶を「子宮内殺人」と名付け、声高に反対を唱えた人の論にそうした根拠と論証がなく、もっぱら「子宮内殺人」という名付けによる印象に頼っているだけであれば、それは浅薄な議論であると評価せざるを得ないだろう。

 こうした問題を明晰に述べているのがテリー・イーグルトンである。やや長いが引用しよう。

 たとえばストライキに際し管理側の代表が「もしこのストライキがつづけば、巷のひとびとは救急車不足で死んでゆくだろう」と語ったと想像していただきたい。この発言は、たとえば新聞がなくなればひとびとは退屈のあまり死んでしまうだろうというような発言とくらべると真実かもしれない。しかし、にもかかわらずストライキ中の労働者たちは、このように語る管理者側の代表者を信用のおけない人間とみなすだろう。なぜなら、その発言の裏に、おそらく「仕事にもどれ」といったような力ずくの命令が隠されているからであり、そのような状況であれば、仕事にもどることがもっとも理にかなったこととはかぎらないからである。(中略)
 だからわたしたちはこういっていいだろう。その管理者側の代表者の発言は言語の一片としてみると真実だが、ディスクールの一片としてみると真実をいいあててはいない、と。それはおこりうる状況をかなり正確に伝えている。しかし、それを、なんらかの効果をねらった修辞的行為としてみると、虚偽でしかない。つぎのふたつの意味から。まずそれは、ある種のごまかしをふくんでいる――その代表者は、彼もしくは彼女がいわんとしたことを、そのまま語っているのではない。そしてその発言は、ほのめかしをともなっている――つまり仕事にもどることが、もっとも建設的な行為であろうといったほのめかしであり、それは、かならずしも真実ではない。
(イーグルトン, テリー(1999)『イデオロギーとは何か』(大橋洋一訳) 平凡社ライブラリー. p.50-51)

 ブログ記事に話を戻すと、筆者は「性的搾取」が何であるかを述べていないし、ましてやそれに該当することが、表現の自由を制約する根拠たりうるかについては全く触れてもいない。読者にわかるのは、せいぜい筆者が想像する「性的搾取」という謎めいた概念の外延に、「宇崎ちゃんのポスター」が存在するであろうということだけである。だから何なんなのだろうか。それは何ひとつ論証されていない。「性的表現」を「性的搾取」に紐付けることすら為されていない。

 要するに、単に事実を述べたものとしてではなく、意見を含むものとして読んだとき、当該ブログ記事にはその意見を支える根拠としかるべき論証がなく、要するに議論として評価すると「何も書かれていない」のである。冒頭で筆者は「何度も同じことを書いているんだけどなぁ」と嘆いておられたが、この有様では、たぶん永遠にそのままだだろう。「反論」しようにも、そもそも論としての体裁を備えていないため、あえてやろうとした人は虚無に向かって棒を振ることになる。

 ゆえに、私は当該ブログ記事の内容について『反対』など一切していないことは明記しておこう。―――以上である。

 そして以下は、有料用のちょっとした小ネタ。


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