ジェイラボワークショップ第68回『数学史 上・前』【数学部】[20231113-1126]部長総括#JLWS

※僕が所属している「ジェイラボ」というコミュニティの中の話です。僕は一応「数学部」の「部長」をやらしてもらってます。

今回はほぼ初となる「円卓型」WSです。私と部員が前提知識という観点から見て対等なので、圧迫感のない構図になっていると思います。モチベーションの違いこそあるとは思いますが。

神と無限

数学史では、当然ですが宗教の話も出てきます。ということは神についても触れるわけですが、数学という見地からはこれは「無限」(とか「無理数」)と並べられることが多いです。

人間が触れちゃいけないタブー、みたいなことです。

翻すと、我々人間は「有限」な存在だということになります。このことについて、無限概念に慣れ親しんでいる我々はどこまで納得感を抱くでしょうか。

ここからは私の偏見が多く含まれ、間違った推測もあるとは思いますが、ご了承ください。

昔の人は、水平線の向こうを眺めるとき、あるいは星空を眺めるとき、その向こうに「果て」があるのか、はたまたそんなものがないのかについて、どう捉えていたのでしょうか。

果てがあると主張する人もいれば、そうでないと主張する人もいたと思いますが、天文学が発展する前にはそれは各々のフィクションをぶつけ合っていただけだと言えるでしょう。各々の思う世界像があって、それに伴って自動的に果てがあるのかないのか決まる、というわけです。

この各々の主張の根本には、我々がそこに石があることを認めるようには、星空の向こうを認識することはできないという諦めがあり、その諦めが転じて「神」のような超越的な概念は生じたのでしょう。この時代の人間は謙虚であり、直接わからないことはわからないものとして認め、「神」として積極的に外部化したのです。

無限概念も、直接果てを確認することができないという不可能性を言語化したものだと言えます。認知科学的に、この話において人間のどこがすごいのかと言えば、「わからない」とか「直接確認できない」とかの「行為の否定的現象」を、仮想的な存在である神とか無限とかを持ち出すことで、「存在の肯定的現象」だと捉え直したところにあると思います。数学はむしろ、その営みで発展してきています。0だって負の数だって虚数だって、元々は否定的な現象だったはずです。

この認識の上では、人間は当然、有限の存在だということになるでしょう。「私が生きている」というある種のトートロジーが、直接確認できることの第一歩であり、それが有限的でなくて何なのか、ということです。観測できるという直接的な行為の可能性は、それすなわち有限性なのです。

さて、現代に生きる我々はどうでしょうか。我々は地球が有限の球体であることを直接発見しています。水平線の向こうには自分の背中があることを、見えないながら知っていますし、それはフィクションをぶつけ合っていたあの時代とは比べ物にならないほど直接的に示すことができます。

宇宙だって、まだまだ未知のことが多いとはいえ、色々とわかることは増えてきています。「今は未知の宇宙の領域も、いつかは既知のものになる」という漠然とした感覚は、自然に皆さんの中にあるのではないでしょうか。

元々は「わからない」ということの言い換えだった「無限」ですが、今の我々はそれを理解の範囲内のものとして扱うことに、慣れてしまってはいないでしょうか。科学の進歩への期待は、「原理的にわからない」ものまで「いつかはわかる」と錯覚させてしまいます。それは実用的には更なる進歩につながって良いことなのかもしれませんが、謙虚さは確実に失われたと言って良いでしょう。今や、無限は僕らの手の中にあります。

正確に言えば、「無限は僕らの手の中にあるけど、僕の手の中にはない」という感覚が真実です。科学は確かに人間の共有財産だし、直接的にわかることとして利用させてはいただくが、自分が発見したわけではないし、する気もない。水平線の向こうに自分の背中があることを見た人は、いないのです。

自分個人の身の丈、つまり有限性を感じ取って日々を過ごす人は、昔の人々のように、謙虚な気持ちで神と無限の類似性を納得することができるでしょう。人間全体の進歩に期待することと、自分の限界を自覚することは両立します。自分が人間全体と融け合ってしまっているインターネット社会こそが、無限を手中に収めたと勘違い(その人の認識の中では間違いなく真)してしまうことに拍車をかけていることはほぼ間違いないでしょう。「その気になれば私はなんだってできる!」

有限性と複雑性

現代における無限概念は、「わからない」ことの象徴ではなく、「わかった気になれる」物事の最たる例です。数学の中で形式化された「無限」は確かに我々の操作範囲内にありますが、形式化するという作業の中には、血の滲むような「有限化」のための努力があることを見失ってはいないでしょうか。その意味では数学的な無限は、「わからない」ことの象徴という意味での無限ではないのです。

数学の話をもう少し続けると、むしろ無限を持ち出したほうが簡単になるケースも多々あります。有限の議論で出てくる汚い誤差項も、無限に飛ばしたら0になって無視できる!みたいなケースはごまんとあります。数学ではこれもちゃんと許される有限的な操作です。

数学から離れた日常生活における我々は、こうした誤差項を汚いからと言って無視できるのでしょうか。無限を手中に収めた!という感覚は、汚い誤差項を「無い」ものとして無視することに直結します。本当に、マイノリティは0に近似できるのでしょうか?

「複雑なものを、複雑なまま捉えましょう。」
ジェイラボ的で現代思想的なキーワードですが、それは日常における有限性、つまり身の丈を自覚することから始まります。汚い誤差項は依然としてあるし、有限とはいえとてつもなく膨大な情報の網目は日に日に複雑になっていくけれど、無限化(コスパ・タイパ)の圧力に負けて一気に分かった気にならなくて良いのです。

人間全体としては分かっているけど、私は分かっていないこと。それを自覚することで初めて「私に分かること」と向き合うことができます。その身の丈の中での非常に具体的かつ身体的な営みの中で、初めて傲慢さを抜きに「いつかは分かるはず!」という希望を持つことができます。

「人間全体の進歩に期待することと、自分の限界を自覚することは両立します」と先ほど書きましたが、自分の進歩に期待することと、自分の限界を自覚することも、同様に両立するのです。

謙虚さと諦めは、健全な希望を持つためのスタート地点なのです。

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