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山内志朗先生『天使の記号学』読んだ

山内志朗先生はセカイ系とスコラ哲学の相関をしばしば指摘されている。

わかるようなわからないような論点だ。だからもう少しそれについて知りたいと思ってこれ読んでみました。

存在の一義性については相変わらず理解できなかったが、現代のグノーシス主義のことはちょっとわかった気がする。

そういうわけで以下はポエムであって、内容の要約とかではない。

序章においてリアリティとはなんぞやという問答から始まる。

生々しいリアリティには身体的なものと肉体的なものがあるだろう。具体的と抽象的といいかえてもよい。

この両極端が無媒介的に結合するような一種の飛躍がありうるのではないか、というのがテーマのひとつである。これを天使主義的飛躍と呼んでいる。

あるいは媒介なしに直接的に癒合することが欲望されることもあろう。これをグノーシス主義と関連付けることも可能だろうし、現代は電子的なグノーシス主義が横溢しているともいえる。

媒介とは制約でもある。私達はこの身体に制約されている。自分の中にあるものは身体ないし、身体を用いた言葉で表現するほかない。私達は、他者と直接的につながりたいと欲望するとき、これらの制約を邪魔に感じる。

言葉も身体もない、天使のごとき「透明な存在」になりたいと願うとき、身体や言葉への破壊願望が顕現する。

ただし他者とのコミュニケーションが直接的であることが良いことばかりであるはずがない。他者の有害性も直接侵入してくる。

ただしコミュニケーションの起点は意志である。意志をもってコミュニケーションを遮断することが可能である。つまり意志はコミュニケーションの阻害要因にもなりうるのである。


身体の制約を受けるものとしては、ほかに欲望がある。はてしなく貪り食っても身体がついていけなくなる。
しかし現代は欲望の対象が満ち溢れており、それらを全て消費するには人類の身体は脆弱すぎる。だが現代の資本が生き延びるためには消費をさせなくてはならない。

であれば身体的な制約を受けないような欲望を喚起すればよい。つまり情報の差異、形式の差異を消費させればよい。欲望の成就も天使的になる。


三位一体に関して理解しにくいのは聖霊である。活版印刷の普及とともに、音声言語が後退したこと関連しているのかもしれない。聖霊と祈りは切り離すことはできず、祈りとは声に出すものである。音声言語が文字に対して劣後するにつれて、祈り、そして聖霊の地位が低下し、現代の日本人には理解しにくくなっているのかもしれない。

聖霊もまた他者と自己を直結させる媒体であった。中世においては聖霊によって神と直接的に融合できると考えたものもあったろう。


そもそもコミュニケーションとは直接的でありうるのか。コミュニケーションには根源的な不可能性があるのではなかったか。。。

コミュニケーションは意志によって遮断できるのは確かだとしても、意志すれば可能というわけでもない。誰かをより理解したいと欲しても、あるいは誰かに理解されたいと望んでも、理解しえない・されないことは多々ある。

できることは伝達可能性ないし不可能性を伝達することのみだろう。それはメタな次元へと無限に後退していくことにつながりかねない



そんなことを考えながら本書を読んでいたのだが、そんなおりたまたま山内先生のポストを目撃したのであった。

本書で展開される哲学は紛れもなく弱く小さな哲学だ。私は大好きだ。

世の中には政治的な強い哲学もどきが蔓延している。私は好きではないが、強いものに寄り添ったり、強いものを取り込んだり、あるいは取り込まれたりするのが現実的な生き方、考え方なのだろう。

ここでいう強いとは、そのお気持ちを重視してもらえるような特権的地位というほどの意味だ。つまり強い哲学とは、私に言わせれば奴隷道徳だ。

山内先生はもしかしたら、自己肯定感の強い人という仰っているから、ツァラトゥストラ的な強さのことを意味しているのかもしれないが。

中世哲学とかスコラ学とか呼ばれるものは、当時は教会権力と結びついていたから、おおむね政治的に強い立場だったろう。

だが今では弱く小さな哲学だ。きっと神的なものと直接つながりたいという大衆の欲求に応える要素もあったからだ。教会権力が地に落ちた現代には、その要素だけが残っているのだろう。

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