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山本義隆『磁力と重力の発見3 近代の始まり』読んだ

磁力と重力の発見、最終巻ようやっと読み終えた。

とんでもない力作、さすがみすず書房

なぜ西ヨーロッパが世界に先んじて近代科学を打ち立てることができたのか、というシンプルな問いが、こんなクソ長い物語になるなんて。

そして自然哲学の発祥地ギリシャから遠く離れたイングランドでどうして産業革命がおこったのか、、、というわけで最終巻の主要人物はヨハネス・ケプラーを除いてほとんど英国人である。


具体的な内容は、人類は磁力や重力という目に見えない、そして遠隔的に作用する力をどのように発見し、利用可能としたのかである。古代から近世初めまでは、磁力の話ばかりだが、17世紀からやっと重力が話題に登ってくる。

ウィリアム・ギルバート

地球そのものが巨大な磁石であることを発見したことで有名なギルバートから始まる。

ギルバートが生まれたのは16世紀なかば、種子島にポルトガル人がやってきて、コペルニクスが『天球の回転について』を発表したのとほぼ同時期である。新しい科学の萌芽が見られ始めるが、ヘルメス主義や魔術思想がまだ幅を効かせていた時代である。

また英国では英国教会が確立され、シェークスピアが活躍したのがギルバートの盛期であり、政治的にも文化的にも新しい空気が横溢していた。

1600年『磁石論』が彼の代表作であるが、そこに記される実験の多くは、ペレグリヌス、ロバート・ノーマン、デッラ・ポルタの追試や改良である。彼の真に偉大かつ先駆的な業績である、地球が巨大な1個の磁石であるという発見も、革新的な実験から帰納されたものではなかった。

また彼は磁気現象と琥珀現象を明確に区別したが、これが電気学という独立した学問の嚆矢となった。ヴェルソリウムと呼ばれる検電器で琥珀による静電気を捉えた実験は、のちのライデン瓶、ボルタ電池につながる画期的なものであった。

磁石に関して、まず彼は鉄と質的に同じであると述べる。つまり、磁石は石で、鉄は金属であるという古来よりある分類が、史上初めて破棄されたのである。これが磁石は地球と同質な成分よりなるとの認識につながる。

ただし、磁石も鉄と同様に高熱の炉で溶かすことができる、磁石は鉄の鉱脈で見出される、といった事実のみにもとづくもので、実証的な実験が行われたわけではない。

また地球が磁性体であるという仮説も、球形磁石をモデルとした実験を行ったのみで今日的な意味で実証的とはいいがたい。仮説ありきで、実験をおこなっていたという感じだ。

しかし科学史における彼の貢献は、地磁気よりも、その磁気哲学にある。磁力は相互作用によって、運動を生ぜしめる、という認識である。これと地球そのものが磁性体であるという認識とあいまって、磁力により地軸が定まる。磁性体である地球は、地球の磁力によって自転する

つまりギルバートは、日周運動に関してはいちはやく地動説を取り入れたイギリス人であり、コペルニクスを高く評価していた。

とはいえギルバートも現代人ではないから、魔術思想こそ斥けられているが、地球は霊魂(アニマ)を有しておりそのものの形相として磁気的活力をもつという奇妙な発想をしている。
これには、地球は卑しく不活性な物体であるという古代ミレトス以来の発想からの脱却が必要だったからともいえる。つまり地球が自転や公転をするには、不活性な物体であってはならなかったのである。

形相というアリストテレスの用語は使われているが、第一動者たる天球が回転するというアリストテレス自然学とは真逆である。

このようにギルバートはまだまだ前近代的発想をしているが、しかしそれゆえに地動説を肯定し、また物理学の登場を準備することになった。
また数学的に法則を確定しえなかったことが(すでに英国ではロバート・レコードやジョン・ディーの仕事が知られていたにもかかわらず)、彼の限界であり、後進に栄光を譲ることになるのであった。


ヨハネス・ケプラー

神学を学びプラトン主義者でもあったケプラーは、ギルバートと異なり、宇宙は神の創造物であるから幾何学的に美しく建設されておらねばならなかった。

太陽の周りを惑星が周回するためには、つなぎとめておく力が必要である。

惑星を太陽の周囲にとどめおく力について、光の減衰から類推して、太陽から離れると減衰すると想定した。これが有名なケプラーの第3法則の発見につながる。

ただし太陽の力がどこから来ているのかはわからず、『神秘』ではアリストテレス風に太陽に運動霊がそなわっていると考えていた。ケプラーもまた半分中世の人であった。

惑星は太陽の発する力によって運動するという大発見は地球が磁石であるというギルバートの議論に着想を得ている。また磁力が重力(物体を天体の中心に向かって落下せしめる力)と同一であると彼が論じたとの誤解が広まっており、ケプラーもそのようにギルバートを解釈して彼の天体力学を構想したのであった。

『新天文学』執筆中にギルバートの『磁石論』を知り、独特の磁気重力論を形成した。その時期にチコ・ブラーエの精緻な観測データを解析してケプラーの第1・第2法則を発見している。

ケプラーがチコのもとで最初に与えられた仕事は火星軌道の解析であった。火星は当時知られていた外惑星のうちでもっとも離心率が大きく、楕円軌道を見出すには最適であった。他の惑星は軌道が円に近いため、チコの精度をもってしても楕円軌道の発見は叶わなかったといわれている。
等速円運動こそ完全であると信じられていた時代に、楕円軌道を見出すのは簡単なことではなかった。

チコはケプラー入門後ほどなくして亡くなるが、彼の貴重な観測データはケプラーに委ねられる。彼のデータの価値を最も理解し、最も活用しうる人間がケプラーだった。後にライプニッツは、チコのデータがケプラーの手に落ちたことを「神の摂理」と称した。

そして20年の格闘の末、ケプラーの第1・第2法則に至るのであった。プラトン主義者でもあったケプラーにとって、非等速で歪んだ楕円運動についてはなにかしら思うところがあっただろう。とはいえ、こうしてケプラーはプラトン以来の円の呪縛から脱し、新たな天文学を構想するのであった。

またコペルニクスと異なりケプラーは明確かつアプリオリに太陽を運動の中心にすえている。ギルバートの拡大解釈により、太陽が遠隔的に力を及ぼしていると想定していたのである。

このようにケプラーによって天文学は天体力学へと変貌した。力学の教科書には必ずケプラーの3法則がのっているが、コペルニクスの話はない。さらに物体の運動を数学的に記述する後の物理学の先鞭をつけたのであった。

物体を運動させる力は速度に比例すると考えていた、また、惑星の周回運動の運動方程式において太陽からの力は接線方向に働くとした。動径方向に伸びた竿のようなものが太陽に自転にあわせて物体を押しているというイメージだったらしい。

ガリレイが太陽の自転を証明するのはこの数年後である。ケプラーはギルバートと同様に太陽もまた磁力によって自転していると考えた。またコペルニクスと同じく、太陽は静止していると考えていた。

これらの誤解のために慣性の法則や万有引力の逆二乗法則を取り逃がしてしまう。
実際ケプラーは初期から、質量に比例し距離に反比例するような引力を予感してはいたようだ。また質量が動かしにくさ、慣性への従いやすさということもわかっていたらしい。

つまり宇宙の等方向性までもうあと一歩だった。宇宙の中心を想定するアリストテレスの空間論をほとんど廃棄するところまでたどり着いていたのだった。

このように先見的だったケプラーだが、生活のために占星術にも手を染めていた。ここで著者はまたしてもパラドックスを指摘する。ケプラーの創始した天体力学は、従来の天文学よりも占星術に近いのではないかという。たしかに、離れた天体が見えない力で影響しあっているなんて、機械論的には胡散臭いこと極まりない。
というか皆さんは、自分は地球と引きつけ合っているという実感を持ってますか?
私はそんな実感ないです。

17世紀機械論

ギルバートやケプラーらが新たな事実を発見しつつあったヨーロッパだったが、それに対応する理論がなく、スコラ学、アリストテレス主義、魔術思想、新プラトン主義などが隙間を埋めていた。

新たな理論が求められていたが、通り一遍の科学史ではガリレイやデカルトの機械論ないし還元主義がそれということになっている。

この時代の機械論は、物質は不活性で受動的で、他の物質に直接の接触によってしか作用できない、という世界観である。常人の実感からすれば合理的である。

このような意味において、ガリレイは合理的精神の持ち主であったがために、万有引力のような遠隔力を認められず、ケプラーやニュートンに比べると現代の物理学の教科書で雑な扱いしか受けていないのである。片足を中世に残していた彼らに比べて、ガリレイは近代人でありすぎたのだ。

潮汐の解釈にこのパラドックスはよく現れている。
潮汐が太陽や月と関連していることは、ケプラーどころか、プトレマイオス、プリニウス、ポセイドニオス、ジョン・ディー、デッラ・ポルタ、フィチーノら多くの人々が指摘してきた。彼らの多くは占星術に関わっている。また占星術に厳しかったピコ・デラ・ミランドラは、月が潮汐の原因であるという見方を批判している。
近代人ガリレイは潮汐を地球の自転と公転の方向の差異によって説明しようとした。もっともこれでは潮汐の半日周期を説明できないという致命的な欠陥があるのだが。

そういうわけだからガリレイは重力を認めることができなかった。落下運動については物体の自然運動と捉えていた。そしてなぜ運動するのかを問うことはやめ、事実を観察し、それを数学的に記述することに専念した。
つまり、初速0で自然落下する物体の落下速度は時間に比例し、落下距離は時間の二乗に比例するということを見出した実験によって、どうにか物理学の歴史に名を残したのである。

デカルトの機械論的自然観は当時の大陸欧州で浸透していたようだが、ガリレイと異なり、物理の教科書で取り上げられることはまずない。しかしケプラーがつまずいた慣性の法則についてかなり正しく理解しており、また運動量保存則も導き出している。

しかし直接的接触による作用しか認めない世界観では、それ以上の発展はなかった。磁力のような遠隔的に見える力については、空間には見えない媒質(施条粒子)が充満しておりそれらが連鎖的に作用して遠くに力を及ぼすと考えていた。惑星の運動は、これら微細な媒質が渦のように動くことで運ばれていると考えたのである。

現代人からすれば妄想も甚だしいが、当時の大陸欧州では合理的だったのだろう。我々が武器軟膏をアホくさいと思うのと同じように、重力など妄想の類だと思っていたようだ。

そして感覚は思考を誤らせると考えたデカルトは、経験や実験を軽視し、「第一原理」から演繹されたものが正しいという袋小路にはまっていくのであった。原因とか本質はいったん括弧に入れて運動の数学的法則の解明に課題を限定したガリレイと異なり、デカルトは自信過剰すぎたのである。
(というか、こんだけ科学について空理空論を振り回されると、哲学者としてのデカルトも方法的に疑いたくなる)

とはいえ大陸欧州では、スコラ学の煩瑣で不毛な説明や、魔術思想のご都合主義にうんざりしていた人々に、単純明快な機械論は訴求したのである。

ケプラーやニュートンの数学的説明を理解するのは誰にでもできることだったが、デカルトの機械論は俗受けする要素を持っていた。もっとも、正しいが小難しい理論よりも、正誤を問わずわかりやすさが受けるのは、現代でも変わらない。

英国における機械論

機械論は英国にも普及したが、ギルバートやケプラーの磁気哲学の影響下にあったせいか、いくらかの変貌を遂げて広まったのである。

すでにヨーロッパ人が遠洋に乗り出して、古代人の言い伝えに誤りが多いことが知られており、航海を通じてさまざまな技術が開発され、経験から帰納的に知識や技術を得ることの重要性が知られるようになっていた。

この傾向が英国ではより顕著であり、その代表がフランシス・ベイコンである。大陸の機械論とベイコン風の経験主義に影響された人々が英国で科学を担っていく。

なにもかも帰納的に推論するのは無理で、仮説は必要である。磁石がニンニクで磁力を失うという仮説の真偽は実験で確かめればよいのだ。このような機械論と経験主義の折衷が英国科学者の気風となる。

形状よりも運動を重視したこと(ボイルの熱力学へ発展する)、物質には活動性の素が備わっているとしたこと、自然科学の一切の理論はいずれ観測技術の発展により実験的に確かめられるという確信、、、これらがデカルトと英国風機械論の相違である。

今では信じがたいことだが、それまでは感性的質は幾何学的形状に還元されることが多かったらしい。例えば冷たいだと、尖った物質が感覚器官を刺激して冷たいと感じさせるといった具合である。熱い冷たいを運動の激しさとして捉える感性は、ヘンリー・パワー、ロバート・ボイルらに始まるのだ。これが形状よりも運動を重視という意味である。

ピューリタン革命、王政復古の時期に王立協会が創設される。初期の重要人物に、ボイルのほかオリバー・クロムウェルの義弟ジョン・ウィルキンズなどがいた。彼らへの磁気哲学の影響は明白であった。

フックとニュートン

フックの法則で知られるロバート・フックもまたその一人であった。機械論的な媒質によって遠くにも直接的に力を及ぼせるという考え方も持っていたが、地球が磁気的な引力を有するとも考えていた。

17世紀中盤には惑星間に磁力が働くという発想はかなり広まっており、1664から1665年に観測された彗星が、太陽に近づいてまた離れていく運動は引力と斥力によるという説明が受け入れられていた。

また中心物体からの物理的影響が距離の二乗に反比例する傾向があることが、音や光の実験から知られていた。

万有引力の法則までもう少しだった。フックの多大なる貢献は、惑星の運動を、接線方向への直線運動と、動径方向への加速に分解したことであった。接線方向の速度しか見ていなかったケプラーから大きく進歩した。

というかもうほぼ正解なのだが、万有引力の法則を厳密に導き出したのはフックではなくニュートンなのであった。このフックの着想以前には向心力と遠心力しか考えていなかったニュートンが先を越すことができたのは、フックが王立協会の業務で忙しすぎたのと、数学力を欠いていたためといわれている。

ニュートンの『プリンキピア』はラテン語で書かれたので国内外で評判となった。しかし、機械論が主流だった大陸では遠隔的に作用する引力という概念はなかなか理解されなかった。古い魔術が復活したかのようで、ライプニッツほどの知性でもこれを受け入れるのは容易ではなかったようだ。

ニュートンは現象を数学的に説明しただけで、その原因とか本質とかがどうとかは全て仮説にすぎなかった。それらはただ実験的に確かめるなり却下するなりすればいいことだった。これは当時の英国の科学者、および現代の一部の科学者の常識的な態度だが、大陸の人々には理解できなかったらしい。

もっともニュートン自身は神秘的で宗教的な人物だったそうで、ケインズは彼を最後の魔術師と称したらしい。また物理学よりも錬金術に何十倍もの時間を費やした。繰り返しになるが、そういう人間だったからこそ遠隔力を割り切って受け入れて、数学的に考察できたのだろう。

そして重力の原因を霊魂とか神とか超越的なものに見出すのであった。

磁力については、ニュートンは最終的には重力とは異なると判断している。万有引力の確立後は、距離の二乗に反比例しない磁力は明らかに違うと思われたのである。そもそも彼は、フックらの磁気重力論とは初めから距離を置いていた。
距離の二乗に反比例しなかったのは、磁力の測定が非常に困難だったせいもある。

ニュートンは王立協会の会長に就任し独裁体制をしいた。ほとんどの実験は彼の意向に従って進められた。ニュートンが磁力を機械論的、近接作用的に考えたことで、英国では磁力の解明が停滞した。

以後、主役は再び大陸へと移る。

磁力の解明

磁力の測定がうまくいかなかったのは、2個の磁石間の磁力をみるとき、4つの極からの力が複雑に絡み合うからであった。そのためには、形の整った細長い磁石が必要だったが、工業技術の進歩とミッシェルのダブルタッチ法の開発を待たなければならなかった。

測定系については、オランダ人ミュッセンブルク、アイルランド人ヘルシャム、ジュネーブのカランドリーニにより精緻化された。

大陸でも18世紀中盤には少なくとも重力についてはニュートンの発見が受け入れられていた。それを磁力にも応用したのが、1760年トビアス・マイヤーの論文『磁気の理論』であった。ここでまずデカルト風の近接作用論を完全に葬り去る。さらに、演繹的かつ実験的に、磁力が距離の二乗に反比例することを示した。

しかしマイヤーの実験は磁力は磁石の大きさに比例するという仮定を根拠なくおいていた。これを磁極を磁石の先端に局所化させることで解決したのがクーロンであった。

クーロンは磁力が距離の二乗に反比例することを疑問の余地なく証明し、また静電気力についても同様の証明をおこない、その名を永遠に歴史に留めることとなった。(科学史でミュッセンブルク、ヘルシャム、カランドリーニ、マイヤーが言及されることはほとんどない)

さらに特筆すべきは、ニュートンが重力にたいしてしたような、神学的な根拠付けは全くされていないことである。ここにようやく神秘的要素から脱して、近代的な数理物理学が誕生したのであった。

おしまい



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