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「どこかの誰か」と「誰でもない他人」

かねてから僕は周囲に「群馬のほうが生きやすい」と伝えている。

群馬の山間部に移住してから今年で4年が経とうとしている。
僕はまだ、この地域では外部の人間だ。
それは僕が感じているところだし、きっと、集落の人からもそのように見られていると思う。
あいつはどこかの誰か、だと。
同じくして僕も、集落に出会う人のことをどこかの誰か、と認識する。

そして年末年始、地元、神奈川県へと帰省。
年末にり患したインフルエンザの外出禁止令が解けたので、食料品を買いにスーパーへと出かけた。
レジで会計を待つそのとき、60歳を過ぎたくらいの男性が僕の前へと割り込んできたのだ。
僕はとっさに、
「すみません、並んでるんです」
と伝えると、男性は鋭い目つきで僕をにらみつけた後、無言で他のレジへと移った。

そうだった。
この街では全員が全員、「誰でもない他人」なのだ。

どこに住もうが、どんな会社で働こうが、どんな家系なのか…。
そんなことは関係ないし、知る由もない。
想像もしない。
ゆえに全員が「名探偵コナン」の「犯人の犯沢」さんのようにひとの形をした、ヒトっぽい生物のように見えてしまう。
そして「ヒトっぽい生物」が自分の行動に関わることを嫌うのだ。

とにかく、自分以外の「誰でもない他人」が存在すること自体、不愉快でならない。
そんな不愉快な「誰でもない他人」が狭い空間に多すぎる。
だからどこか殺伐としているし、いつもイライラを抱えている。
雑多な人混みの中で不快な空気感の要因にはきっと、こんな心理が働いている。

なぜそんなことが言えるのか。
何を隠そう、群馬に移住するまでの僕もそうだったから…。

年明け。
同じく食料品を買いに群馬の移住先にあるスーパーへと出かけた。
やはり、地元のスーパーとは違った。

店内の通路でカゴやカートが当たりそうになれば、すみませんと声をかける。
はたまた会釈をしながら、互いの進行方向を妨害をしないように華麗にかわす。
それ以上に、ちょっとした視線のやりとりで、知らない人とも「阿吽の呼吸」ができる。

きっと、集落に住まうひとの奥底には「どこかの誰か」という共通認識があるのだ。

集落の人間は子供のころから、全員が顔見知り。
たとえ集落外の自分の知らない他人でも、実は誰かとの関わりの中で繋がっている可能性が高い。
ゆえに「他人」とはいえ「誰でもない他人」ではなく、何らかの関係性を持った「不明確な他人」として認識する。
だから無碍に失礼な行動は取れないし、必要最低限のコミュニケーションを図ろうとする。
そしてそれが、地域に柔和な空気感として存在し、人々の関係性に「余裕」を生み出すのだ。

単純に店舗の敷地面積が広く、棚の間隔もあり、通路幅も大きいという理由もある。
けれど、群馬に来てからの僕は、買い物の度にストレスを溜めこむことが無くなった。

住むことには「生きやすい」けれど、過疎化の深刻化する群馬県のとある街。
利便性の上では生活することが不便となる「生きづらい」町へと変わりつつある。
その一方で「向こう三軒両隣」という言葉さえ、陳腐化する僕の生まれ育った街。
面倒くさい「関係性」を、利便性の名のもとに捨てたのだろう。
地元では「見えない関係性」なんて、家でも学校でも、誰からも教わらなかった。
けれども移住先では、子供ですら「見えない関係性」を意識しているように、僕は思える。
たぶん、それがなければ生きていけないから…。
そんなことを考えた年末年始だった。

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