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人々が脱出する地域にこれから来ようとする人へ考えてほしいこと。

今日の農作業中、こんな話題があがった。

近隣の地域では、地元の農家を研修先としながら、使われなくなった農地をやる気のある若者などに提供している。
来年度にはその地に、複数人の若者が参入するという。
これには役場の職員も喜んでいるのかと思いきや、実はそうではないらしい。

なぜか。

誘致を担当する職員でさえも、集落では「オマチ」と呼ばれる栄えた場所から通勤している。
表向きは喜ばしいことだと振る舞っていても、内心はいつまで生活できるのかと不安なのだそうだ。

もともとその地域には、小学校と中学校があるが、年々、児童・生徒数が減りはじめ、いよいよ近隣の学校との統廃合が計画されているという噂も耳にする。
近隣とはいえ、本来あった小学校から、合併先の小学校まで車で片道30分以上も掛かる。
付け加えればスーパーもコンビニもなければ、電車の通る駅もない。
独身であればなんとかなるが、そんな場所に家族を連れてくれば負担になるのは間違いない。

僕はこの話を聞いて、無性に腹が立った。
無責任すぎる、と。

僕はこの先、この集落の人口は増えないだろうと考えている。
むしろ人口の流出はとどまることをしらず、教育も、医療も、産業も著しく廃退するだろう。
身勝手な職員を抱える行政も革新的な改善案をついには打ち出せず、呆れた住民が日ごと夜ごとに去るのだから。

希望を抱き、新たにやってくる若者たちは、自費と大切な時間で、地域の農産業に貢献しようとしている。
果たして誘致の活動をする職員は、過疎の現実をどのように伝えているのだろう?
耳に心地の良い言葉に誘われてやってきた若者がバカを見る。
そんなことになりはしないか?

やがて「生活が難しくなる」ことはこの地域に住まう誰しもが分かっている。
国や行政が見放した地域に、活力ある産業が生まれるものだろうか。
道路や水路のインフラ、人と人とのコミュニティ、さらにはカネを回す銀行から流通まで、あらゆる産業は技術が発展しようとも近くに人がいなければまわらない。
ゆえに何もない過疎地で産業を活性化しようとするのは、首都圏や都市部などから比べると、とてつもなくハードルが高い。

そんな状況のなかで「身の丈」とか「自給自足」などの謳い文句がもてはやされるが、そんな生活は長続きはしない。
テレビ番組で取り上げれられる山間の一軒家は、大抵、空き家か高齢者が住んでいて、もうその代で終わる家ばかり。
つまり、食べてはいけないから家を出たのだ。
生きてはいけないから、過疎地を脱出したのだ。

そして極論。
いつか過疎化が極まれば、コミュニティごと「疎開」する必要が出てくるように思う。
工場ごと疎開。
農地ごと疎開。
学校も病院も、まるごと疎開。
その地域に残る人は、行政サービスが届かないからこそ、自己責任で生きていくことになる…。
そうはならなくとも、日に日に利便性の高い街や国に人は移るだろう。

必要なのは「ひとの再生産」。
いまいる人がそのシステムを維持し、さらには次の代へと、より発展させていく気概がなければ過疎は進むばかりだ。
基準は今の僕らの仕事を、他の誰かにつなぐことができるかどうか…。
人がいなくなるということは、仕事も、生活も困難を伴う。
僕も首都圏に住んでいるあいだ、そんな当たり前のことさえ、分からなかった。
新たに住まう若者もきっと、理解は乏しいのだろう。

僕も群馬で生活をするようになり、あらゆる「行き詰まり」を目の当たりする。
ひとりの負担が倍加し、自治もインフラ整備も立ち行かなくなる。
消防団は?
除雪は?
バス路線は?
地域行事は?
草刈りは??
それをこなすには、多大な時間と労力とカネが必要となって、ついにはたくさんの「もうダメ」を目撃するはずだ、これからも。

けれどいまは僕らの地域を維持するために、僕らに何ができるのかを考え、行動する必要がある。
なぜならそこには僕らの産業があり、まだまだ維持されているのだから。
僕らの職場に新しく人材を迎えるには?
そんな人材に次の時代を担ってもらうには?
僕らの仕事を子供たちに知ってもらうためには?
子供たちに負担を強いない街づくりはなにか?
地域を活性化する前に、足もとの「地域を維持する」ことに視点をむけなければなるまい。

けれどもし「もうだめ」が僕らに訪れたのなら、そのときは何がなんでも、その場所から脱出しなければならないだろう。
なぜなら、生きることが困難だから。

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