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どてらねこのまち子さん『Yesterday Once More』

 駅前のピンク色のビルの4階にあるリードボーカル養成所は気がついたら血まみれでした。私は怯え震えていました。そして隣でどてらを着た二本足で歩き、言葉を喋る猫のまち子さんも震えていました。
「うにゃにゃにゃにゃにゃ・・・」
 私とまち子さんは血と臓物で一変してしまった光景に呆然としていました。
 そしてそんな血と臓物にまみれた部屋の中央に立つのは四次元で構成された四次元立方体の熊でした。
 四次元で構成された熊はぼんやりとゆらめきながら、時折私達に向かってソプラノボイスを響かせていました。
どうしてこんなことになったのでしょうか。
少しばかり話はさかのぼります。


「岸本さん、岸本さん、この紙はなんでしょうか」とまち子さんは私に一枚の紙を見せてきました。
「リードボーカルになりたいあなた!ぜひうちのスクールへ!」と立体的なフォントで彩られたチラシがそこにはありました。
「リードボーカルってなんですか?」とまち子さんは頭をかしげながら聞きました。この問いに私は困ってしまいました。私も一介の人間でありますのでリードボーカルという存在は知っています。しかし説明するとなるとうまく伝えられないのでした。
「うたうたいさんのことですか?」まち子さんは尋ねます。まち子さんはボーカルのことを"うたうたいさん"と言います。そこがかわいらしいところでした。
「そうです。うたうたいさんのことです。リードボーカルとは、うたうたい集団の中でも、その集団をひっぱっていく存在のことです」
 私はゴスペラーズを思い描きながらこの話をしていました。ゴスペラーズの真ん中のサングラスをかけた方を特に思い描きながら。しかしゴスペラーズのあの方がリードボーカルなのかは知りませんでした。
「そうなんですね。なるほど。なるほど・・・」まち子さんはそういうとしばらく考え込むような表情をしていました。
「どうしたんですか?」
「岸本さん。私一度、このリードボーカル養成所ってところに行ってみたいです」まち子さんは私に言いました。
「ここにですか?」
「私、うたうたいになってみたかったのです。うたうたいになってうたをうたってみたいのです」
「なるほど」
「岸本さん。付いてきてくれませんか?無料体験があるみたいなので行ってみたいのです」
 ビラの下の方をまち子さんは指さしました。するとそこには「無料体験毎日実施中!」との文字が踊っていました。
「今日ですか?」
「あ、今日です。大丈夫ですか?」
「いいですよ」と私は返しました。特に予定も無いですし、私もリードボーカル養成所というところがどういうところか興味あったのです。
「ありがとうございます!」まち子さんは満面の笑みを私に向けました。いえいえと私は言いました。陽はちょうど沈みかけていました。街がだんだんと赤く染まっていきました。


 チラシの案内に従って駅前のピンク色のビルの4階に来ました。狭苦しいエレベーターの扉が開くとそこにはリードボーカル養成所という看板と「ふぁ~」という歌声がガラス製の扉の向こうから響いていました。
まち子さんが先におりました。まち子さんがガラス製の扉を二回ノックします。
「すいません~」
 がちゃりと扉が開いて中から部屋の空気が飛び出してきました。
「はい~」とそこに立っていたのは黒ずくめの服装をした男でした
「あ、あの、リードボーカル養成所の、無料体験に来ました、まち子です」「あら猫さん。今日は不思議なお客さんが多いのね。大歓迎ですよ。ほらほら入って入って」と黒ずくめの男は私たちを案内しました。

 部屋の中に入ります。部屋は鏡張りで至る所に張り紙がしてありました。そしてその部屋には5人の男女と一匹の熊が立っていました。
 その熊の手にはチラシが握られていたのでこの熊も無料体験に来たのだと思いました。
「今日は体験の方が沢山いらっしゃって嬉しいですわ」と黒ずくめの男は言いました。どうやら講師のようでした。
5人の男女が拍手をしました。どうやら無料体験者は私たちと熊のようでした。
「じゃあ、そちらの熊さんから自己紹介してもらっていいかしら?」
「僕はテッセラクトベアーです」
「テッセラクトベアー?」
「四次元立方体の熊って意味です」
「あらあら。変わった名前ですね。」
「自己紹介代わりに歌ってもいいですか?」
 黒ずくめの男は少し困惑したようでしたが、いいですよと言いました。
 四次元立方体の熊が歌い始めました。とても心地のよいソプラノボイスでした。
「おうたがとても上手ですね」とまち子さんは私だけに聞こえるように言いました。
 講師も受講生たちもその熊の歌声に聞き惚れていました。
 すると四次元立方体の熊の口から、ソプラノの歌声とともに突如四次元の立方体が出現しました。
 その四次元立方体は熊の歌声に合わせてゆらゆらと飛び回っていました。 
 その動きはまるで蝶のようでした。最初はみんなどきっとしたものの、次第にその動きに魅了されていきました。
 その四次元立方体はゆらゆらと黒ずくめの講師に近づいていきます。
 黒ずくめの講師は目で立方体を追っていきました。そして、近づく四次元立方体に指を近づけました。
 四次元立方体に触れた瞬間でした。
 黒ずくめの講師の身体が一瞬で、裏返しになりました。裏返しになったせいで血と臓物が辺り一面に飛び散りました。
「きゃあ!」と5人の男女が叫びました。
 四次元立方体はその悲鳴に反応して、5人の男女を一気に通り抜けていきました。5人の男女の身体も裏返しになりました。
 私とまち子さんは全身が血まみれになってしまいました。
 リードボーカル養成所に生まれた血の海を合計6人分の臓物と裏返しに死体がぷかぷかと浮いています。その血の海は四次元立方体の熊の歌声に合わせて小さく波打ち、ゆらゆらと四次元立方体が飛んでいました。


 これが、ここまでの経緯です。今も四次元立方体の熊は気持ちよさそうに歌っていました。
 「うにゃにゃにゃにゃにゃ・・・」とまち子さんはすっかり困っています。何しろ歌を習いにきたのに、気がついたら血の海にいるので当然と言えば当然でした。

 四次元立方体の熊はふと歌を止めました。四次元立方体の熊は周りを見渡しました。その惨状にやっと気がつきました。そして惨状に対して、諦めと悲しみが混じった顔をしました。
 四次元立方体の熊が私達を見ます。
 私たちはどきりとして体が固まりました。
「大丈夫です。あなたたちは死にません」
 四次元立方体の熊はそういいました。
「殺さないんですか?」私が聞き返します。
「いえ、ここでは死なないって見えてるからです」
 そう四次元立方体の熊は言いました。
「見えてるってどういうことですか?」
「私は過去も現在も未来も、今まさに見えているのです」四次元立方体の熊は私たちに言います。
「どういうことですか?」まち子さんが返答します。
「私には時間のすべてが、モザイク画のように構築されて見えています。すべての時間はばらばらです。しかし遠くから離れてしまえば、一枚の絵のようなのです。私は私がここに来る前から、もっと言えば、生まれたときからこの人達がこうなることはわかっていました。そして私がこの人達をわたしの歌声で殺してしまうことも。」
 「あの、じゃあ、なぜ殺してしまうとわかってて今日ここに来たのですか?」
 「過去も現在も未来もモザイク画のように見えると言いました。すべてはもう既に完成された絵なのです。過去も現在も未来も収まるべきところにもう収まっているのです。私にできることはその絵をただ鑑賞することだけです。絵を書き換えることはできない。それに」
そこで、四次元立方体の熊は言葉をとめて深呼吸をしました。
「……私もリードボーカルになりたかったのです」と四次元立方体の熊は言いました。
「……うたうたいさんになりたかったのですか?」まち子さんがそう聞きました。
「うたうたいさん?」
「はい。うたうたいさんです」
 四次元立方体の熊は少し考えたあとに微笑みました。
「はい。私もうたうたいさんになりたかった。聞く人の心を打つ、歌を歌う、そんなうたうたいさんになりたかった。でも、それは無理なことでした。それもまたわかっていたことだったんです。その絵も見えていたことでした。そしてそれをすることで、どんなことが起きるのかも」
 四次元立方体の熊はそう言いました。
「最後に、一曲だけ歌わせてください」
「いいですよ」
 まち子さんが返事をすると、四次元立方体の熊は微笑み、そして歌い始めました。
 四次元立方体の熊が歌い始めたのはカーペンターズの『イエスタデイ・ワンス・モア』でした。四次元立方体の熊はソプラノボイスで優しく、時に切なくそして力強く『イエスタデイ・ワンス・モア』を歌いました。
 口から四次元立方体がでてきました。その四次元立方体は歌に合わせてふわふわと浮遊していました。

All my best memories come back clearly to me
Some can even make me cry
Just like before
It’s yesterday once more

過去と現在と未来のすべてを見ることができる四次元立方体の熊が過ぎ去った過去を振り返ったとき、四次元立方体が熊の身体に触れました。
 その瞬間、熊の身体は裏返しになりました。四次元立方体の熊の血と臓物があたりに飛び散りました。


 
 一ヶ月後のある日、私とまち子さんは散歩をしていました。その最中に、あのリードボーカル養成所が入っているビルが見えました。あんなことがあったせいで、養成所は閉鎖になりました。今もまだ規制線が貼られているのも見えます。
 私たちはコロッケを買いました。そして食べながら二人で歩きました。
「あのうたうたいになりたかった熊さんなんですけども。あの熊さんは自分があそこで死ぬこともわかってたんでしょうか」
 そうまち子さんは私に聞きました。
「さあ、どうだろうね」
「あの熊さんが言うようにいまもむかしもみらいもわかっちゃうんだったら、熊さんは死ぬことをわかって、あの場所に来たってことですよね」
「そうだね」
「……そうでもしても、歌いたかったのかなあ……」
 まち子さんはそうつぶやきました。
 私はコロッケをかじりました。とても美味しい味が口いっぱいに広がります。
「岸本さん。私のうたを聞いてくれますか?」とまち子さんは言いました。「ええ、いいですよ」と私が返答するとまち子さんは歌い始めました。
 まち子さんの歌はどこか間延びしていて、お世辞にもうまいといえるものではありませんでした。
 でも、とてもまち子さんらしい歌だと思いました。
 夕暮れ時でした。あちこちの電灯が灯りはじめました。
 今日が次第に終わっていく気配がありました。
 今日を過去として思い出す、そんな日もやってくるんだろう。
 私はそう思いながら、まち子さんの間延びしたかわいらしい歌を聞いていました。

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