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【沖縄戦:1945年3月29日】「神風ハ吹キ二九日〇八〇〇敵未ダ上陸シアラズ」 慶良間の朝鮮半島出身「慰安婦」たち─ハルコ、ミッちゃん、アイコたちのその後─

29日の戦況

 昨28日午後、陸軍第8飛行師団の索敵機が那覇南方に100隻もの米艦船を発見したことから、第32軍はこの日の米軍の上陸を警戒していたが、来襲機も少なく上陸の気配は見られなかった。
 沖縄南部湊川地区は、朝7時30分ごろより艦砲射撃をうけたが、北、中飛行場方面の米艦艇はわずかであった。
 米機動部隊は、昨日夕刻より九州方面への攻撃を展開しており、九州は終日艦載機による空襲をうけ、各航空部隊の作戦行動に大きな支障が出た。
 第32軍は、この日の戦況を次のように電報した。

 神風ハ吹キ二九日〇八〇〇敵未タ上陸シアラス 敵艦船群ハ二八日夕刻以来ノ陸海軍ノ攻撃ニ依リ大ナル損害ヲ蒙リ航空機活動極メテ低調ニシテ艦船ハ一般ニ視界外に退避セリ 詳細後報

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 第32軍は昨日、沖縄へ「張付特攻」を要請したが、第6航空軍はあくまで九州および台湾から沖縄方面に出撃し、航空特攻を行うこととした。その上での第32軍のこの日の「神風ハ吹キ」という表現は、現地軍の意向を何も聞いてくれない各軍に対するある種の皮肉ともいえるかもしれない。
 沖縄南部湊川方面に配備されている第24師団歩兵第89連隊第5中隊のこの日の陣中日誌には、次のように記されている。

 山七六深作命第一四号 中小地区隊命令
  三、二九、一五〇〇 破竹岳
一、大隊ハ本夜更ニ陣地ヲ強化スルト共ニ偽陣地ヲ構築セントス
二、渡部中尉ハ荷馬車三車輌ヲ以テ本夜一九〇〇通信中隊ヨリ鉄線ヲ受領大隊本部ニ輸送スベシ
三、陣地強化ノタメ各隊ニ鉄線ヲ配当ス
 依而各隊ハ所要兵力ヲ本二〇〇〇本部ニ差出シ鉄線ヲ受領セシムルト共ニ右鉄線ヲ以テ陣地所要ノ地点ニ障碍物(蹄型、低鉄條網等)ヲ設置スベシ 鉄線ノ各隊配当数ハ別ニ示ス
四、擬陣地構築ノタメ各隊(機関銃中隊、五中隊ヲ除ク)ハ下士官以下一五名ヲ本夜一九〇〇迄ニ本部ニ差出シ工藤中尉ノ指示ヲ受ケシムベシ
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 陣地強化のため各隊に鉄線を支給し、それで鉄条網など障害物を設けよなどとあり、緊迫した情勢を読み取ることができる。
 また同じく沖縄南部湊川方面に配備されている独立混成第15連隊の連隊本部のこの日の陣中日誌には、次のように記されている。

 三月二十九日 小雨
一、敵飛行機ノ飛来数少クモ艦砲射撃ハ依然トシテ続行
二、一五、〇〇駆逐艦及巡洋艦ハ前川湊川、屋嘉部ヲ射撃 舟艇八隻ヲ以ツテ帯岸地帯ノリーフヲ破壊湊川方面ノ上陸企図確実トナレリ
三、二〇〇〇各大隊副官及各隊将校集合 部隊長ヨリ戦斗ノ指針アリ

(同上)

 「湊川方面ノ上陸企図確実トナレリ」「部隊長ヨリ戦斗ノ指針アリ」といった表現に、やはり緊迫した情勢があらわれている。
 なお、この日23時ごろ、運天港から魚雷艇10隻が出撃し、伊江島周辺の米艦船10数隻を攻撃、翌30日早朝帰還した。戦果は巡洋艦1、駆逐艦1を沈没と報じられた。
 また米軍はこの日、渡具知海岸で掃海作業(機雷除去)や偵察、攻撃などをおこなった。

 三月二十九日、艦載機は沖縄の飛行場を襲い、日本機二十七機を撃破し、推定二十四機をさらに破損させた。この期間に地上で撃破された日本機は合計八十機に達した。そのほか、小型船舶、木造船も襲撃され、少なくとも八隻の日本潜水艦を運転港で撃沈させた。
 水中爆破隊は、飛行機や艦砲射撃の掩護射撃のもと、慶伊瀬や沖縄南東海岸の沖合、渡具知海岸で偵察を行うかたわら、必要に応じて爆破作戦を敢行した。米軍機は、時に機銃掃射、爆撃、ロケット弾発射で、海岸一帯を攻撃し、時に煙幕機を利用して掃海隊を隠蔽した。艦隊は三列になって、沖縄の沖から猛烈な火力をあびせて水中爆破隊の力となった。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

 このように米軍は上陸前、掃海作業を徹底していたわけだが、それはいうまでもなく沖縄の沖合に機雷が敷設されていたからである。沖縄島には以下の図の通り、約700個の機雷が敷設された。その他、石垣島と宮古島の周辺の沖合いにそれぞれ200個ずつ機雷が敷設されていた。

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昭和20年3月末における沖縄周辺機雷敷設状況図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
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沖縄近海にて触雷(機雷に接触)し沈没する掃海艇スカイラーク 1945年3月28日撮影:沖縄県公文書館【写真番号106-06-2】

 その他、宮古島の宮古高等女学校は、空襲のため卒業式をとりやめた。

第32軍会報より

 この日、第32軍司令部は、次のような会報(軍隊の内部的な連絡や指示、通知のこと)を発している。なお「球」とは、第32軍の兵団文字符のことである。

 球軍会報  三月二十九日
一、壕内生活ノ持続ニ伴ヒ左記事項ニ注意セラレ度
 1、壕内ニ於テハ生活状況不規則トナリ易キヲ以テ作戦上必要ナル以外ハ努メテ生活ヲ規正シ睡眠摂食節制ヲ保ツコト
 2、日光ノ不足ハ生活ヲ益々消極的ナラシメ紫外線ノ不足ヲ伴ヒビタミン類ヲ一層必要トスルヲ以テ給養ヲ適正ニシ脂肪、生野菜ノ補給ニ努ムルコト
 3、炊事ニハ常ニ消毒液ヲ設置シ炊事勤務者ノ手指消毒ヲ励行スルコト
 4、直射・灯火ハ眼ヲ刺戟シ壕内塵埃ト相俟ツテ結膜炎其ノ他ノ眼ノ疾病ヲ誘発スルヲ以テ成ルベク拡散光源ヲ利用スルニ努メ不要ノ場合ハ消灯若クハ遮光ヲ十分ニ行フト共ニ洗眼ヲ実施スルコト 又電灯以外ノ灯火ハ燃焼瓦斯ニヨリ空気ヲ汚染スルヲ以テ不要ノ灯火ヲ放置セザルコト「ローソク」ノ裸火ヲ遮ケ洋灯ノ「ホヤ」ハ更ニ薄キ白紙ニテ被フヲ可トス
 5、不慮外傷ノ予防ニ留意シ軽少ナル創傷ト雖モ早期ニ治療ヲ受ケルコト然ラザレバ化膿ヲ来シ或ハ創傷伝染病ヲ誘発スル慮[ママ]アリ
 6、壕内ハ勢ヒ過剰ニ棲息シ空気ヲ汚染シ呼吸器殊ニ鼻咽喉ヲ冒シ易キヲ以テ含嗽ヲ励行スルコト
 7、時日ノ経過ト共ニ蚤虱ノ発生著シキモノアルヲ以テ身体衣服ノ保清ヲ図ルコト
 8、壕内ノ清潔整頓ニ努ムルコト
 9、諸事節制ヲ旨トシ体力ノ保持増進ニ努ムルコト
 10、壕内換気ヲ障碍セザル様特ニ出入口通路ニ停止セサルコト
 11、節煙
 12、壕内ニ於テ大小便排泄或ハ濫リニ放痰ザ[ママ]セルコト
 13、壕内ニ痰壺、塵箱等ヲ常置シ置クコト
二、戦斗指令所附近ノ銃爆撃遂[ママ]次実施シツヽアリ従テ大便ハ必ス夜間之ヲ実施スル如クセラレ度
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 首里城下の第32軍壕はじめ、各隊は壕に籠って米軍上陸を待つなかで、あるいは米軍上陸後も壕に籠って持久戦を展開するなかで、生活環境の注意は部隊の士気と健康の維持のために必要なことであったろう。そのため非常に細かい指示、通知が続く。沖縄戦という熾烈な戦闘がイメージされるが、その裏には間違いなく兵士たちの「生活」があったのである。
 他方、地上戦により住民たちも壕やガマ、亀甲墓内などへの避難を余儀なくされるが、そうした住民たちにも生きていくための「生活」があったわけであり、兵隊たちの生活環境については注意するものの、住民たちにはそうした配慮がないのは、やはり軍隊はどこまでいっても軍隊を守るものだと思わざるをえない。

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沖縄に向かう米艦上でジョニー・マッツレロ一等兵の演奏するアコーディオンを聴く従軍記者アーニー・パイルと米兵たち 1945年3月29日撮影:沖縄県公文書館【写真番号109-19-1】

慶良間諸島の状況

 海上挺進第1戦隊が駐屯する慶良間諸島の座間味島では、28日以降米軍の攻撃は活発ではなくなった。同戦隊は少数の斬り込み隊を派遣し、米軍への攻撃を続けたが、大きな戦果はなかった。
 海上挺進第2戦隊が駐屯する同諸島の阿嘉島ではこの日、同戦隊が拠点とする野田山に米軍の砲撃が集中したが、以降、米軍の攻撃は散漫となる。しかし軍も住民も山奥に避難したため食糧難に陥り、軍による住民の食糧の強奪や食糧を確保した住民への私刑など軍の暴力的統制が行われた。
 海上挺進第3戦隊が駐屯する同諸島の渡嘉敷島ではこの日、米軍が迫撃砲による猛烈な攻撃を行ったが、米軍部隊が接近し攻撃を行うことはなかった。同戦隊は、斬込隊を派遣するとともに旧陣地から食糧を確保するなどした。
 なお渡嘉敷島では、米軍上陸に伴って昨28日に強制集団死が発生していたが、28日の強制集団死の発生とこの日の遺体の発見など、同島における強制集団死について米軍側の戦史は次のように記している。

 慶良間列島──これは文字どおりにいえば、”慶び”と“良いこと”のあいだにある列島なのだが──ここでは、山中に追いつめられた日本の軍人や民間人がついに自決して、すさまじい最後をとげるという日本人の伝統的行為が行なわれた。渡嘉敷島北端に野営していた第三〇六連隊の兵士たちは、三月二十八日の夜、はるか遠くに何回となく爆発音や苦痛のうめき声を聞いた
 翌朝[29日朝─引用者註]、小さな谷間に百五十人以上の死体が散乱し、また死に瀕している者がいた。そのほとんどが住民であった。父親が家族の一人一人を殺し、さいごには、短刀や、もっている手榴弾でわれとわが命を断ったのだ。この人たちは、ほとんどそういう組織的な方法で自殺したのである。なかには一枚の毛布の下で、父親が幼い子供二人とおじいさん、おばあさん、そこに自分の身体をしっかり帯でくくりつけ、離れまいとして自殺しているのもあった。
 翌朝、現場に来た米軍は、兵隊も医療班もあらゆる手をつくした。住民は米人を“鬼畜”と教え込まれていたのだ。
 この鬼畜が上陸してきたら、男は殺され、女は暴行されるものと考えていた。だからアメリカ人が食べ物をあたえ、医療を施したとき、彼らはびっくりして見つめていた。わが娘を殺したという一老父は自責の念にかられてワッと泣き伏してしまった。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)
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沖縄上陸に向けて地図を見ながら打ち合わせをする米兵たち 1945年3月29日撮影:沖縄県公文書館【写真番号90-08-4】

慶良間諸島の朝鮮出身の「慰安婦」たち

 1944年9月以降、慶良間諸島には海上挺進戦隊が配備され始めるが、同年11月上旬、座間味・阿嘉・渡嘉敷の各島の慰安所にそれぞれ7人ずつ「慰安婦」(以下、煩を避けカッコをはずしそのまま慰安婦とする)とされた朝鮮半島出身の女性が連れてこられた。このなかには沖縄で自身が慰安婦であったことをはじめて公表した裴奉奇(ペ・ポンギ)さんもいる。そして軍は、集落のはずれの大きな民家を接収し、慰安所を設置した。
 慰安所の設置に関し、渡嘉敷島では、風紀紊乱などを理由として反対運動が起きている。慰安婦とされた女性たちに何の罪もないが、渡嘉敷島の住民の懸念も無理はなく、実際に沖縄島において将兵が慰安所で酒を飲んで暴れたり、小学生がよくわからず慰安所のなかを覗き問題となった事例などがある。
 渡嘉敷島の赤松戦隊長は、慰安所の設置により住民の身が守られると説得したが、実際に兵士たちによる住民への性暴力が抑止されたのかどうかは不明である。沖縄島での出来事であるが、なかには慰安所で金を払わずに慰安婦に性行為を強要するなど、連行され戦時性暴力の被害にあっている慰安婦に対し、さらなる性暴力におよぼうとする将兵もいた。

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30口径機関銃を構える米兵たち 撮影場場所は不明だが、この日に地上で機関銃を構えているとすると、慶良間諸島のいずれかの島の神社・御嶽のようなところか 1945年3月29日撮影:沖縄県公文書館【写真番号05-66-4】

ハルコ、ミッちゃん、アイコと呼ばれた女性

 裴さんによると1945年3月23日の米軍の空襲により、渡嘉敷島の慰安所も爆撃され全焼したが、裴さんはキクマル、スズラン、カズコという源氏名の朝鮮出身の慰安婦とともに風呂場に避難し、同じく朝鮮出身であったハルコ、ミッちゃん、アイコと呼ばれた慰安婦は炊事場に逃げた。
 裴さんたちは無事であったが、ミッちゃんとアイコは足を撃たれ、もんぺが血で真っ赤に染まっていたという。ハルコも銃撃され重傷を負った。
 米軍機が去ったので裴さんが逃げようとすると、「ねえさーん、私たちも連れてってよう」と慰安所の前まで這い出てきたミッちゃんとアイコの声が聞こえたが、裴さんには助ける余裕がなかったという。
 ハルコはその後、基地大隊の鈴木隊長が救助したが、再び米軍機に銃撃され命を落とした。ハルコの遺体は慰安所に放置され、腐乱死体となったという。ミッちゃんは軍の医務室まで辿り着いたが、軍は島の北部に撤退したため置き去りになった。アイコは住民の壕に逃げたが、島の人はアイコを嫌がり助けることはなかった。
 ハルコはその後埋葬され、渡嘉敷村出身の戦没者を弔う「白玉の塔」に刻銘された。ミッちゃんとアイコは後に米軍に救助され、座間味島の野戦病院で治療を受けたといわれている。
 ハルコ、ミッちゃん、アイコと呼ばれた女性たちは、なぜこのような仕打ちをされなければならなかったのか。裴さんの戦後の暮らしも苦しいものがあった。いま一度、私たちは、私たちの国が慰安婦の女性たちに何をしてきたのか考える必要がある。

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座間味島と渡嘉敷島の朝鮮出身の慰安婦たち 右から2人目と4人目がミッちゃんとアイコ、その他の3人は座間味島の慰安婦と思われる 戦闘から解放された安堵からか非常に明るい顔をしている:沖縄県公文書館【写真番号113-31-3】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・川田文子「渡嘉敷と座間味の『慰安婦』」(季刊『戦争責任研究』第87号)
・「第62師団会報綴(独立連射砲第22大隊受領)」防衛省防衛研究所沖縄関係文書<101>

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慰安所の利用料など詳細について記している軍資料:アジア歴史資料センターRef.C11110065200「第62師団会報綴(独立連射砲第22大隊受領)」防衛省防衛研究所