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【沖縄戦:1945年8月24日】慶良間の日本軍の投降 「米軍上陸の場合は朝鮮人を皆殺しにした方がよい」─慶良間に連行された朝鮮出身者と日本軍

海上挺進戦隊の投降

 この日、慶良間諸島渡嘉敷島の海上挺進第3戦隊が米軍に降伏、武装解除した。同諸島阿嘉島の同第2戦隊も前日23日に武装解除している。
 米軍の沖縄上陸以前、第32軍は慶良間諸島への米軍の上陸はなく、沖縄中部の西海岸へ直接上陸するという戦略的判断をおこなっていた。そのため慶良間諸島に特攻艇部隊である海上挺進戦隊を配備し、西海岸に上陸する米船団の背後を襲う作戦を立案し、慶良間諸島の座間味島に海上挺進第1戦隊(戦隊長:梅澤裕少佐)、慶留間島および阿嘉島に同第2戦隊(戦隊長:野田義彦少佐)、渡嘉敷島に同第3戦隊(戦隊長:赤松嘉次少佐)を配備した。
 ところが第32軍の戦略的判断とは異なり、米軍は沖縄島に上陸する直前の45年3月26日、慶良間諸島の各島に上陸を開始し、これをもって沖縄戦の地上戦が開始されることになる。なお慶良間諸島への米軍の上陸と戦闘の展開の詳細については、以下の記事などを参照していただきたい。

 こうしたなかで海上挺進第2戦隊は阿嘉島の山中に追いつめられるが、3月30日、阿嘉島から米軍が撤退したのを確認し、食糧や物資の確保、陣地の構築に努力し持久戦に転移した。6月13日と14日、米軍舟艇が海岸からスピーカーで投降を求めた。また米軍は20日、26日に降伏を求めるため上陸すると告知した。26日、捕虜となった日本軍将校を引き連れて米軍が上陸、戦隊と降伏について交渉したが、戦隊は降伏を拒否した。8月16日、終戦の通告がスピーカーおよび宣伝ビラの撒布によってなされ、野田戦隊長は22日、降伏文書に調印、23日に武装解除した。
 渡嘉敷島の第3戦隊は45年3月27日に米軍の上陸を迎え撃つも大損害を被り、山中に避難した。30日、米軍の撤退を確認した戦隊は、やはり持久戦の態勢に転移した。その後8月初頭まで何度か米軍の上陸や攻撃をうけながらも戦隊は陣を維持しつづけたが、8月16日、米軍から終戦の放送があったため、赤松戦隊長は翌17日に尉官を米軍のもとへ派遣、18日には米軍指揮官と会見した上で停戦し、この日戦隊は武装解除した。
 なお第1戦隊は45年3月26日の米軍上陸以降4月半ばまで米軍と抗戦をつづけたが、梅澤戦隊長が負傷したため組織的戦闘の継続は困難とし、各隊に独自の行動をとるよう命令し、降伏した。そうしたことから、6月26日、阿嘉島の第2戦隊のもとに降伏を求めて米軍に連れられてきた日本軍将校とは、あるいは梅澤戦隊長のことかと思われる。梅澤戦隊長はこの時点で捕虜となっていることから、連れられてきた日本軍将校が梅澤戦隊長ではなくとも、少なくともこの際に梅澤戦隊長の降伏を求めるメッセージが伝えられたということはあったのではないだろうか。

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慶良間諸島で鹵獲された特攻艇を調査する米軍 撮影日不明:沖縄県公文書館【写真番号108-15-4】

特攻艇部隊と朝鮮半島出身者たち

 慶良間諸島の戦いでは、住民の強制集団死(いわゆる「集団自決」)が発生し、多くの住民が犠牲になったことはよく知られている。その他、戦隊が持久戦を展開し、住民の食糧を統制したため、戦隊はおろか住民の栄養状態が悪化し栄養失調での犠牲者も出た。
 しかし犠牲者は、日本人ばかりではなかった。慶良間諸島の特攻艇部隊には、特攻艇を秘匿する壕の構築作業や泛水と呼ばれる特攻艇を水面に浮かべる重労働を担う特設水上勤務隊が配備されていたが、その要員はいわゆる「朝鮮人軍夫」と呼ばれる朝鮮半島出身の軍属であった。
 こうした朝鮮半島出身者は牛馬のごとく働かされ、また日本兵による暴力的制裁、リンチをうけた。そればかりか日本兵は彼らの脱走や反抗、スパイ行為を警戒し、島の住民に監視させるなどした。渡嘉敷島の赤松戦隊長が座間味島の梅澤戦隊長に「朝鮮人には武器を渡すな。米軍上陸の場合は朝鮮人を皆殺しにした方がよい」と連絡していたという当時の伝令兵の証言も残っている。
 渡嘉敷島の第3戦隊では、第32軍壊滅から数日後の6月30日に朝鮮半島出身の軍属が多数脱走する事件が起きたが、この前後で多数の朝鮮半島出身の軍属が「処刑」されている。第32軍の壊滅による動揺と朝鮮半島出身軍属の脱走という恐れていた事態の出来により、見せしめと統制のため戦隊が多くの朝鮮半島出身軍属を「処刑」したものと思われる。
 その他、慶良間諸島には朝鮮半島出身者の「慰安婦」も多くいた。沖縄戦において「慰安婦」であったことを初めて名乗り出たペ・ポンギさんも朝鮮半島から渡嘉敷島の「慰安所」に連れていかれた朝鮮半島出身の女性の一人であるが、彼女たちも米軍の攻撃に巻き込まれ死亡するなどしている。
 例えばハルコとの源氏名で呼ばれた朝鮮半島出身の「慰安婦」は米軍の空襲により負傷し、ハルコをひいきにしていた日本軍将校が彼女を助けようとして当番兵に背負わせて避難していたところさらに銃撃され死亡した。そのためハルコの遺体は「慰安所」の隣に放置され、そのまま腐乱していったという。
 日本軍により「慰安婦」とさせられ、日本軍のはじめた戦闘で米軍により攻撃され命を落とし、そして日本軍によって腐乱した状態で遺体が放置されたハルコ。命と尊厳を踏みにじられたという他ない。
 慶良間諸島の朝鮮半島出身軍属と「慰安婦」についての詳細は、以下の記事を参考にしていただきたい。

[証言記録 市民たちの戦争]“朝鮮人軍夫”の沖縄戦:NHK戦争証言アーカイブス

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『座間味村史』上巻
・川田文子「渡嘉敷と座間味の『慰安婦』」(季刊『戦争責任研究』第87号)
・ 海野福寿「朝鮮人軍夫の沖縄戦」(『駿台史學』第7号)
・伊藤秀美『検証『ある神話の背景』』(紫峰出版)

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米軍の捕虜となり連行される慶良間諸島の朝鮮人軍属:沖縄県公文書館【写真番号113-05-4】