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 ラクゴ

 うちの妻はよほど変わり者とみえる。いつだったか肥前夢街道に家族で旅行したさい、南京玉すだれをみて、どこに魅了されたのか、玉すだれをそこで買って、自分でもやり始めたのである。
 自分一人ではダメだとわかると、市民講座にたまたまそういう講座があったのを見つけ、生徒になった。その講座では一緒にバナナのたたき売りの口上も教えており、両方を3ヵ月かけて会得した。免許皆伝の身となった。
 それから市民センターを渡り歩き、講座を設けて、南京玉すだれを教えて回った。お祭りや何かしらの発表会があると、弟子を連れて演技を披露した。
 市民センターで出会ったのがアマチュア落語家の山椒家小粒氏であった。小粒氏は市民センターやお祭り等で落語を披露しにどこへでも回っていた。自分で企画して落語会を開催することもあったし、他の落語会に参加することもあった。老人ホームに慰問にいくこともあった。仕事は別に持っていたので、落語を披露するのは、土日に限られていたが。
 その小粒氏が妻の付き添いできていた我が息子に目を付けた。
 小学校4年生の彼に落語をするよう勧めたのである。まんざらでもなかった息子は、そこから落語を始めることになる。
 落語をはじめた息子は覚えは早く、まだ声変わりのしていない喋りが客に受けて、彼は人気者になった。
 師匠の修行は厳しく、躾から教えられた。母親の目の前でも平気で叱った。だが本人は最初に高座にあがった時の成功体験があったので、叱られても辞めるなどとはいわなかった。
 息子の落語が成長すると相乗効果で学校の成績も向上した。今までボーッとした生活をしていたのが、自我が目覚めたようで、自信がついたのであろう。
 TV局が取材に訪れた。RKBが一週間かけて息子の番組を作るという。「窓を開けて九州」という番組だった。私は仕事で会ったことはないのだが、10分間の番組である。
 取材中に何処で嗅ぎ分けたか、NHKが取材にきた。NHKは夕方のニュース番組の1コーナーでの扱いであった。取材は1日だけで、RKBよりも早くオンエアされた。朝早く登校時から夜までいた。おかげで私も会う事ができ、オンエアで食事中の背中が映った。オンエアされた時、瞬時に親戚から電話がかかってきた。TVはすごい。
 NHKはほんの平日の1日だけを切り取っただけであったが、RKBは師匠との稽古やら本番を撮影し、純粋に小学生落語家としての息子の番組をつくってくれた。
 中学生になり、勉強も忙しくなると、出番を少なくした。声変わりもはじまり、これまでほどはうけなくなってきた。
 中学校の卒業式の日、3月11日。東日本大震災が起こった。津波の映像が各局どこも放送し、これまでみたこともない悲惨な状況にスーッと血の気が引いた。
 高校に入った夏休み、小粒一座は東北に慰問にでかけた。妻と息子も一緒である。親父は留守番であった。
 避難所や仮設住宅で落語や南京玉すだれを披露した。息子も受験でしばらくご無沙汰だったけど、意外と覚えてたらしく、上手に立ち回っていた。
 息子が入学した高校は進学校だったので、落語はこれでおしまいになった。師匠にすれば、大学に入ったらもう一度一緒にやりたかったみたいだったが、大学は兵庫県に行くことになり、稽古をする時間はなくなった。
 息子は大学でも余興で落語を少し披露し、1ヵ月体験留学したオーストラリアのパースではお別れ会の時、英語で落語を披露したらしい。
 夏休み冬休み春休みと大学生は休みが多かったが、妻が仕事を再開して玉すだれをしなくなったことも関係したか、落語はもうすることはなかった。ただ師匠との付き合いは続いた。
 大学を卒業した彼は2度とは落語をしなかった。病気になり、現在も闘病中であるためだった。
 親としては早く治るのを見守るしかない。
 


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