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サマルカンドサッカー観戦記(2023/8/17)

はじめに

 夏休みにウズベキスタンに行ってきた。サマルカンドで念願のサッカー観戦をしてきたので、簡単にだがここに書き残すことにする。

1. 旅の前半戦

 出発は8月11日だった。台風の接近に一抹の不安を覚えての出発だったが、幸い乗り継ぎ地の仁川国際空港の空模様が怪しかったのみで、特にトラブルもなくタシケントに到着した。

 旅の前半は東部フェルガナ盆地へ。以前から訪れているリシタンの日本語学校を訪れた。前回来たのは7年前ということで、道路は舗装され、市中心部には派手な街灯が敷設され、バザールの建屋が新しくなり、ナイトクラブ(!)まで作られており、街の様相は大きく変わっていた。否が応にも7年の時の移ろいが感じられ、印象的だった。
 しかしながら、肝心の主要産業である陶器は観光や町おこしに有効活用されている様子もなく、日が暮れる20時頃には静かな宵闇が街を覆い、頭上に満点の星空が広がるさまは、7年前とほとんど変わっていなかった。
 リシタンの日本語学校では、現地に住み込んで子供たちを教える傍ら学校の運営も行う日本人のボランティアの男性がおり、彼とその友人である夫妻の発案と企画で盆踊り大会が開かれた。彼らが日本からありとあらゆる機材を持ち込み、櫓は現地の家具職人があつらえた特注品、食べ物や射的といった出店もある本格的なもので、地元フェルガナ州のテレビ局も取材に来ていた。

盆踊りの様子。せっかくのお祭りということで、筆者も羽目を外して盛り上がった。

 リシタンの滞在は3日間だったが、無垢な子供たちの姿に感銘を受け、のどかな盆地を後にした。

2. サマルカンドへ

 一旦タシケントに戻り、サマルカンドに住む大学の先輩Tさん夫妻と久しぶりに会った。彼らも南欧旅行から帰ってきたばかりの中だったが、無理を言ってこの日に会うことにしてもらった。
 タシケントに住む奥さんと別れて、2人で高速鉄道に乗りサマルカンドへ。この世界遺産の歴史都市には10年前にも来たことがあるが、大まかなこと以外は忘れている。その圧倒的な情報量のブログや人柄もあり、界隈では結構有名人でもあるTさんがあれこれ連れて行ってくれたので、短期間ながらとても有意義な観光ができたし、すっかりこの街を思い出した。壮大なレギスタン広場やグリ・アミール廟、悠久の歴史が塗り重ねられたシャーヒ・ズィンダ。空の青に溶け込まないターコイズブルーのドーム、数百年前で時が止まったような路地裏。近年の観光振興政策により、我が国でも知名度が上がってきたサマルカンド。街の様子はネットでもざっくり調べることができる。

おそらくサマルカンドで最も有名な場所、レギスタン広場。滞在中は毎日快晴で、「青の都市」の異名は伊達ではなかった。

3. いざディナモ(サマルカンド)の試合へ!

 さて、今回の本題はサッカー観戦。一人旅の趣もあれば、旅の道連れが多いのもそれはそれでにぎやかで楽しい。サマルカンドではもう一人旅の仲間ができた。拠点にしていた観光案内情報センターで、中央アジアのサッカーが好きなNさんだ。タジキスタンを周り、フジャンドからウズベキスタンに抜け、テルメズに寄ってサマルカンドに来たという。
 初めての海外旅行でイスファハーンとサマルカンドで迷った末サマルカンドを選んだことがきっかけでウズベキスタンにハマり、大学で中央アジアサークルまで立ち上げた猛者である。なお、初対面時にローマ時代のショムロドフのユニフォームを着ており、とても羨ましかった。なんとこのNoteを見てくださっていたとのこと。ほそぼそと続けてきた甲斐があった!

 今回見に行くのはディナモ(サマルカンド)の試合。ディナモは現在ウズベキスタン2部リーグに所属している。以前の記事でチームの概要について書いているので今回は詳述を割愛する。元ウズベキスタン代表監督のヴァディム・アブラモフ氏がチームを率いる。

会場のディナモ・スタジアムのメインゲート。旧ソ連式のなだらかな傾斜でひさしのないスタンドが印象的な、12,500人収容のスタジアム。

 ディナモは2022年まで1部リーグに所属していたが、その年に最下位となり降格。今年は1年でのトップフライト返り咲きを目指し奮闘している。
 もとから2部としては有数の戦力を保有していたこととシーズン前の補強が奏功したことで開幕から負けなしと好調。
 主要スポンサーのAgromirはそこそこ資金力のある建設会社らしく、夏の移籍市場でも積極的な補強を敢行。セルビア1部からCBのミイッチを、そしてOKMKを自由契約になったスライモノフとトシュマトフを獲得。OKMKの2人は昨季こそ負傷で長くプレーできなかったが、実力は折り紙付き。特に後者はいち中堅チームだったOKMKが強豪にのし上がるのを、恐るべき精度の左足クロスで支えてきたベテランだ。昇格に向けて本気で戦力を整えてきたのが伺える。
 引き分けが多く勝ち点を伸ばしきれていないものの、首位ロコモティフ(タシケント)とは実質勝ち点差6の2位、自動昇格圏内につけている。3位のコーカンド1912との差は3。3位〜5位チームは昇降格プレーオフに回ることから、残り10試合を切った中、熾烈な順位争いに身を投じている。

4. 試合の様子

 キックオフは8月17日の19時。直前のスケジュールが押したせいでキックオフにわずかに間に合わず。開始直後に行われるスタメン発表放送が聞こえる中、メインゲート脇の窓口でチケットを購入。チケット価格は15,000スム(当日のレートで≒180円)。夏の甲子園の外野席よりも安い。
 今日の対戦相手はナフバホル・ファーム。1部リーグ所属のナフバホルの2軍である。1軍は昨季の超大型補強で一気に強豪チームになり、現在パフタコルやネフチと優勝争いの真っ只中。いっぽうこちらは試合前に深刻な資金難が報じられ、待遇の差が選手のモチベーションやコンディショニングにも影を落としているようだ。

一応サポーターズクラブのようなものがあり、コールリーダーもいる。ウズベキスタンではファンはメインスタンドで応援するのが一般的。

 やる気のない2軍チームを相手にディナモがボコボコにする展開かと思いきや、試合は以外にも前半から四つの展開。最序盤はホームのディナモが押し気味に進めるものの2度の決定機を活かせず、その後は30分頃からナフバホル・ファームが押し返す。せっかちなウズベキスタン人がイライラし始めたところで前半終了。堪忍袋の緒が切れたファン1名がハーフタイムに荒れ、警官とコールリーダーにたしなめられる微笑ましい場面もあった。
 一緒に観戦したショムロドフユニフォームのNさんは高校サッカー経験者。横で話していても、自身の経験や戦術の知識が豊富だった。こちとら筆者はほぼズブの素人である、羨ましい限りである。彼がひたすら縦に急ぐウズベキスタンのサッカースタイルをして「こんなサッカーがあったとは……。世界は広い」と言っていたのが印象的だった。

 仕切り直して後半。ディナモは中盤のアコポフを下げ、地元出身かつ元ウズベキスタン代表、ロシアのルビンでのプレー経験もあるパワフルなFWナシモフを投入。それまでの3-4-3からフラットの4-4-2にシステム変更。センターフォワードの枚数を増やし、ゴールを狙う意思を全面に出してきた。
 しかしながら先制点はナフバホル・ファーム。47分、右サイドから雑に入れたクロスがペナルティエリア内でディナモDFの腕に当たりPK。これをマフムドホジエフが決めた。残念ながらウズベキスタン2部はVAR未導入なので映像チェックもなし、怒ったディナモファンの"Sudya pidaras!「クソ審判!」"の大合唱の中ゲーム再開。これはスタンドもピッチも荒れるぞ……。とトラブル発生も心の片隅で覚悟していたが、ここでエースが覚醒する。

試合後のスタンド。勝利時にはバイキング・クラップ(懐かしい!)を行う。この日の入場者数は公式発表で3,536人。この国の2部リーグにしてはそこそこの入りだ。

 60分、センターバックのムスタフォエフが右サイドのスペースにパスを出すと、抜け出したナシモフがエリア内右でグラウンダークロス。ゴール前のコジョが相手DFともつれながらゴールに押し込み同点。これで勢いに乗ったのか、70分には中盤の高い位置でボールを奪い、メンサーのスルーパスからコジョが抜け出しGKとの1対1を制し、今日2点目のゴールで逆転。その後もディナモが押し気味に試合を進めたが追加点は奪えず2-1で終了。ディナモが見事な逆転勝利を収めた。

Youtubeでフルマッチが無料公開中。コジョの圧巻のプレーをぜひ。

ディナモ2 - 1ナフバホル・ファーム
8月17日 ディナモ・スタジアム(サマルカンド)
D:コジョ(60', 70')
N:マフムドホジエフ(PK, 49')
ディナモ:ヤグージン、ウバイドゥッラエフ、ムスタフォエフ、ミイッチ、アブドゥッラエフ(74'スライモノフ)、アコポフ(46'ナシモフ)、ラフマトゥッラエフ、メンサー(74'トゥルスンクロフ)、ナー(89'アサドゥッラエフ)、ムイディノフ(74'トシュマトフ)、コジョ
警告:ウバイドゥッラエフ(90')
観衆:3,536人


 旅行前から数試合ディナモの試合を「予習」していた。そこで目についたのがFWのジョエル・コジョ。ガーナ出身だがキルギスのドルドイ在籍時に現地の女性と結婚、キルギス代表としてプレーする異色の経歴の持ち主だ。大柄かつしなやかな体躯の持ち主で、爆発的なスピード、強靭なフィジカル、そして意外と柔軟なボールタッチを兼ね備える万能型。裏に抜けてよし、相手を背負ってよし、キープしてよし、空中戦もよし、クロスに合わせるのもよしという、2部リーグでは次元が違うスーパーマン。好調が続き本人も波に乗っているのもあるだろうが、この日も何をさせてもうまくいき、やりたい放題。言い方が合っているかは分からないが「戦術はコジョ」だった。何かと色々やりたがる選手はどこの国にもいるものだが、それで2点を取ってチームを勝利に導くのだからすごい。

妻の母国キルギスの代表ジャージを着たコジョ。1児の父でもある。

 この試合に先立つ1日にはカップ戦のベスト8で名門パフタコルと対戦し、このディナモ・スタジアムで3-2で勝利するという大番狂わせを起こしているのだが、その試合でも大活躍。別格のプレーで、国内最高峰チーム相手にも十分実力が通用するところを見せつけた。

 また、今季のディナモを語るに欠かせない選手は他にもいる。
 まずは「ガーナ人トリオ」。上記のコジョと、フランシス・ナー、そしてデリック・メンサーである。
 ナーは華奢なサイドアタッカー。多くの人がアフリカ出身選手に抱くような「俊足で技術がない」類の偏見とは真逆の、身体能力に恵まれてはいないがしっかりした技術力があり、丁寧かつインテリジェントにプレーする選手。余談だが筆者は彼の密かなファンである。昨季まで1部のブニョドコルでプレーしており、チーム状態がどん底のときにナイジェリア人FWトミワと奮闘していたのを毎週のように見ていたからだ。更に余談だが、アーセナルのMFトーマス・パーティーとは異父兄弟の関係である。
 メンサーは今季チェコのチームから加入した守備的MF。こちらは大柄で筋骨隆々。パワフルなプレーで中盤の守備を引き締めるタイプだが、若干プレーは雑。加入1年目ということもありアブラモフ監督の信頼を勝ち得ておらず、100%のパフォーマンスは出せていない印象だが、気心知れた同胞2人とともにエネルギッシュにプレーしている。なお、アトレティコ・マドリードの下部組織出身である。

メンサー(左)とナー。彼らの後でスウェットを着ているのはコジョ。

 そして、このチームには日本人選手が所属している。小池雄大選手だ。1995年生まれの愛知県出身(筆者と同郷だった!)、地元のクラブチームから米沢中央高校に進学。センターバックとして選手権出場も果たすなど全国レベルで活躍した後に神奈川大学に進む。卒業後はリトアニアのチームに入団。以降数チームを渡り歩き、ジューガス・テルシェイでは1部昇格に大きく貢献。その後も2シーズンにわたりリトアニア1部で活躍。「リトアニアの居心地が良くなってしまった」こともあり、今季からサマルカンドにプレーの舞台を移したという。
 ポジションはディナモでは左サイドバックを努めているが、ジューガス時代は左右のウイングでプレーしており、サイドなら幅広くどこでもプレー可能。個人で打開するだけでなく、周囲も使いながら突破していくのが得意で、豊富な運動量を活かし攻守にアグレッシブなプレーでチームに貢献する。4バックと3バックを併用するチーム戦術にもしっかりマッチする。足元の技術も非常に高く、ナーやコジョと並び2部リーグでは格の違いを見せる。
 もっとも、今回の観戦はコジョよりも小池選手だったのだが、不運にも直前のリーグ戦で足首を負傷してしまったようで、この日の試合はメンバー外。アブラモフ監督の信頼も厚く、前節までチーム唯一の開幕から全試合フル出場だっただけに残念である。この日は筆者らが陣取ったメインスタンドとは反対側、ベンチ裏のスタンドにいたが、周囲に気づかれた末に連れられたVIP室で観戦していたという。そこまで重症ではないようなので、無事回復することを願っている。

小池選手。

 Tさんが小池選手と親しいことから、試合翌日の昼食をご一緒する僥倖に恵まれた。プロサッカー選手と直に会うのは、幼少期に八事のジャスコでストイコビッチに出くわして以来である。
 海外で長くプレーしているからか多少のトラブルにも動じないメンタルの持ち主で、とても爽やかな方だった。監督の指示はロシア語がわかるガーナ人トリオに英語で教えてもらっていること、夏のリーグ戦中断期間に行ったキルギス合宿に何故かコールリーダーが参加していたことなど面白い話をたくさん聞くことができた。もちろん契約のことなど、ここには書けないようなこともたくさん聞いたが……。
 これまでにウズベキスタン1部リーグでプレーした日本人選手は2人。柴村直弥選手(パフタコル、ブハラ)と佐藤穣選手(ブニョドコル)である。来シーズン、1部リーグでさっそうとプレーする小池選手の姿が見たいと、いちウズベキスタンサッカーファンとして強く思った次第である。

小池選手とはレギスタン広場近くの韓国料理屋でご一緒した。以外と美味しかった。

5. おわりに

 その日の夕方にタシケントに戻り、夜10時の飛行機でウズベキスタンを発った。19日に帰国し、今に至る。現実に引き戻され、何事もなかったように仕事に向かう毎日が再開したわけだが、まだあの国の余韻が体中に響いているのを感じる。これでウズベキスタン訪問は5回目だが、いつ行ってもいいものである。その時その特で人生のターニングポイントになったのは、いつもウズベキスタンだった(一応ロシアもそうだったが)。いつかこの国に関わりながら暮らしていけたらと、改めて強く思った。

 末筆ではありますが、道中ご一緒したみなさん、ありがとうございました。おかげさまで、忘れられない旅を終えることができました。今後ともよろしくお願いいたします。


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