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あの日、あの街で、彼女は。〜五反田駅〜

真っ黒のリクルートスーツ姿の新卒が2人。

上京して2ヵ月。まだまだ知らない駅だらけで、頭の中で地図も描けない。方向音痴のせいもあるのだろうか。五反田駅までの行き方を調べた第一印象は、「山手線のめっちゃ下(南)のほう」ということ。山手線の内回りと外回りはいまだに覚えられない。しかも山手線は満月みたいなまん丸の円形ではなく、米粒みたいな縦に長い楕円形だなんて。

4月は全体研修のため、港区エリアの貸会議室に缶詰め状態だった。GW明けからやっと現場に配属され、テレアポとロープレの毎日が始まる。1日100コール以上かけて0アポの日もあった。営業職の第一歩として、闇雲に行動するしかなかったときだが、いま考えても心が折れそうになる。

そんな日々を繰り返す中で、彼女のGoogleカレンダーに見知らぬ予定が飛び込んできた。先輩の既存企業への同行が決まったのだ。未熟で不安な気持ちよりも、やっと外出できるわくわく感が勝った。

まだリクルートスーツを着ていた5月下旬、初めての訪問場所が五反田だった。淡い青色に染まる五月晴れの日、梅雨の足音は聞こえないふり。吹き抜ける風が爽やかで心地よくて、初夏のひだまりの匂いを運んでくる。光を浴びた鮮やかな新緑が、エネルギッシュな"はじまり"を予感させる。

初訪問の企業はなんと、業界大手の社長宛だった。緊張なんてもんじゃない。ジャケットを羽織っていても汗をかかない季節のはずなのに、会議室で待っている頃には額にじんわりと汗が滲む。唯一の救いは、新卒が彼女ひとりではなく同期と一緒だったこと。

習ったとおり、無事に名刺交換を終えて席に座る。両の親指を添えながらスライドさせて渡す感じがかっこよくて、その後の場数を踏んで習得した。難しいお話がひたすらに続いて、テーブルの下で太ももの肉をつねっていたら、1時間が過ぎていた。

帰りの解放感が忘れられない。思わずジャケットを脱いだ。同期と喋りながら五反田駅まで戻る途中で、日本酒を売りにする居酒屋の看板を見つけた。日本酒好きの同期に導かれ、お互いの退職後までもずっと、一緒に日本酒を飲む親友になるなんて、このときの彼女はまだ知らない。

同期との出会いになみなみの感謝、お猪口にゆらゆらと映る酔っ払いの彼女を思い出す。

あの日、あの街で、彼女は。


*プロローグ

*マガジン

※基本的には経験上のノンフィクションですが、お客さん情報の身バレを防ぐために一部フィクションにしています。

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