人格障害の親が発達障害の子どもを持ってしまったことについて

いや、正確には、私以外は「グレー」である。

私「境界性パーソナリティ障害診断、治療4年目」
主人「自己愛性パーソナリティ障害グレー、自己愛性ヴァンパイア」
息子「医療機関にてADHD診断されず、グレーゾーン、愛着障害傾向」

普通の親でもきっと手こずるであろう我が子のタイプ、なぜ私たち夫婦の間に生まれてきてくれたのだろうか、と思ってしまう。

・習い事の先生の言葉が辛い

これは治療でも言われたこと。子どもが叱られている場面や、集団行動ができずに外されている時など。気にしていないつもりでいても、BPDである私は人並み以上に傷ついているはずだ、と。BPDは普通の反応傾向に自分を修正していくのが治療なのだが、『傷ついているのについていないフリをする』のも、ある意味偏った反応。あとで来る反動が大きくなるのかなと思う。

習い事の先生によって、言うことも色々だ。集団に迷惑をかけているので、あからさまに嫌な顔をしてくる先生もいる。「この親は一体どう言うしつけをしているんだ」と言われている気になる。先日はお教室の玄関で、私が間違えて飲み物をこぼしてしまった。その時の対応一つ取っても、「やっぱり親もだらしがないんだわ」と思われている気に、勝手になってしまう。するともう、その日1日、気にしていないフリをしていても、ものすごい心に負荷がかかっているらしく、ぐったりしてしまう。本来は、適度に気にして、気にしすぎないくらいがちょうど良い出来事なのに、気にしすぎてしまう。「私が飲み物をこぼした」から飛躍して、「こんなに私にストレスを与えたあの女(教室の先生)は死ね」にまで発想が飛ぶことも、BPDにとってはおかしくない。

習い事での出来事を主人に報告するたびに、主人がどう言う反応をしてくるかが気になるし、怖いし、めんどくさいし、ストレスになる。

自分を責めることも、相手(ここでは教室の先生)を責めることも、子どもを責めることもせずに、どう心の処理をしていけばいいのか、まだうまく掴めない。

私のBPD治療の主治医曰く「物を投げていた時の方が、ある意味楽だったと思いますよ」とのこと。物を投げることも、極端な思考に陥ることも、「おかしい。やめたい」と思っている今の方が、確かに、しんどい。

・ありのままを認めるべきなのか

「ありのままを認めて欲しい」この感情のまま大人になってしまうと、私のようなパーソナリティ障害を発症してしまう。本来は、子供時代に、その欲求はとっくに満たされているべきだったのだろうか。

BPDの辛いところはここだと思う。その欲求が満たされていないからこそこの障害になっているにもかかわらず、病的な本人のありのままの感情や言動を丸ごと受け入れて認めることは、治療として最もNGなことだから。もしそれをされたら、BPDはどんどん周りを振り回し、試し行為がエスカレートして、「どこまで行ったらこの人は離れていくのか」を確認しようとしてしまう。

その治療をしている今、子どもをしつける上でも同じことを思ってしまう。子どもはある意味、親に対して日常的に試し行為をしてくる。全部を認めるわけにはいかない。だけど、BPD的にゼロ100で子どもを否定するような態度になってしまうと、今度は我が子も人格障害にさせてしまいかねない。「普通の怒り方」で「一般的におかしくないような躾」で「周りの子どもと比べて、このくらいならまぁまぁかな」と思う線に持っていくのが、BPDの治療としての子育てと考えたら、良いのかもしれない。しかし、相手はADHDのグレーゾーン。一般的にみたまぁまぁなレベルに持っていくには、言葉で脅して無理やり従わせる以外、今の所方法がわからない。

「こういう個性の子ども、として受け入れてあげることも大事です」と、ADHDの診断をしなかった病院の先生に言われた。それでも、自分の子どもには出来るだけ普通でいて欲しい。自分自身がこれだけ障害で苦しんでいると、子どもに大人になってからこんなことで人生無駄にするような悩み方をさせたくない。個性を認めすぎることは、パーソナリティ障害を治療していく上ではとても危険を孕んでいる。個性の履き違え。いや、もしかして心のどこかでまだ、「自分はありのままを認められていないのに、子供のことは認めなきゃいけないの?」という思いがあるのかもしれない。

・特別な子どもに育てたい旦那

自分は素晴らしい人間であると信じて疑わない主人にとって、子どもたちは「天才児」でないといけないらしい。昔は今よりもっとひどく、毎日のように天才を育てるための情報や記事がメールで送られてきたし、天才教育的な本がたくさん並んでいた。それが、まさかの「グレー」な子。でこぼこで、ダメなところがあってもどこか秀でているところがあれば、「天才だから」と思うのかもしれないが、息子は、今の所そういった面も見られない。

この主人の価値観も、自分にとっては非常にストレスの原因。自己愛性パーソナリティの場合、大抵が実際の能力より大きく自分を見積もっているわけで、実際の自分自身に対してはコンプレックスが大きい。その分、子どもに期待していたのもわかる。しかし、さすがに子供が少し大きくなって、「これは自分の思い描くような天才にはさせられないかも」と思ってきたらしい。

普通のことが普通に出来る。このことの価値を、私は今ならとてもよくわかる。しかし、普通という言葉が好きで特別な子に育てたい旦那。そして、頑張ってもなかなか普通になれない息子。日々、普通というキーワードと共に治療に励む自分。皆が違う方向に向いている感覚。

なぜ、息子は私たちの元に生まれてきたんだろうか。親として、一刻も早く成長することが求められている気がする。



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