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ブスと闘った日々

 突然だが、貴方は誰かをいじめたことがおありだろうか。弱いものを追いつめ、攻撃を加える行為というのは、洋の東西を問わず、いつの時代、どの場所においても珍しい話ではない。

 おそらくそれは人間に限らず生き物としての本能なのであろう。そして、本能に従うということは大変な満足をもたらすものであるから、弱者をいたぶるのは、さぞかし気分が良かったことと思われる。

 しかしその時、貴方は鏡を見たことがあるだろうか。

 貴方が優位性を振りかざして他者を攻撃している時、貴方が虫ケラのように見ている相手の、その目に映る貴方の顔は、妖怪じみたブスだという自覚をお持ちだろうか。

 十中八九、持っていないに違いない。そんな自覚があったら、弱い者いじめなどといったくだらないことはしないはずだ。


 なぜそんなことが断言出来るかというと、何を隠そうこの私は、そんなブス顔をイヤというほど見せられた側、つまりいじめられた側だからである。


 色んな人から色んなことをされた。どんなことをされたか、内容は人それぞれ、バリエーションに富んでいたが、一つ共通項として挙げられるのは、そういうちょっかいを出してくる輩は皆、判を押したかのように揃いも揃ってブスだったということである。

 目鼻立ち云々の話ではない。

 「顔つき」が、である。

 なんというか、そういう輩はどいつもこいつも「歪んだ」顔つきをしていた。


 いくら嫌がらせをしてきた相手とはいえ、女の子に対して、ブスなんてヒドイ! と思われるかもしれない(私に嫌がらせをしてきたのはほとんど女子だった)。

 そう、確かにそうなのだ。私とて、そんな言葉で誰かを表現するのは本意ではない。女の子にとって、「自身が可愛いこと」が最重要事項であることは私もよく承知しているし、だからこそ、「ブス」という言葉が与えるダメージ力がいかほどのものであるかも容易に理解出来る。よって、本来なら、誰かに対して「ブス」などという言葉を向けることは皆無に等しいが、いじめの加害者は、自ら女の子の可愛らしさを放棄するような言動に出ているわけだから、遠慮なく「ブス」と呼ばせてもらう。


 中学生の頃、「先輩には絶対服従!」的な空気が暗黙の了解として校内に漂っていた。

 それを笠に来た年増ブスたち(当時の私基準)は、私が入学するや、待ち構えていたかのように張り切って、ちょっかい出しを開始してきた。自分たちにはそうする権利があるのだと思っているから、それはそれは堂々としたものであった。そういうブスたちの意地悪く勝ち誇った顔を見るたびに、「ブスやなあ」と私は感心していた。「ひとに嫌がらせすると、ナルホド、それっぽい顔つきになってくんねんなあ、ブスやわあ……」


 私はひとよりも優れたところなど特にないが、そういう判断が出来る頭と心を持てたことは良かったと思うし、その分だけでも、彼女たちより可愛いと思う。


 こんなふうに書くと、案外ノンキなように見えるかもしれないが、本当のところは事態は結構深刻で、私の心境は複雑だった。


 嫌がらせを受ける側が、それを止めさせたいと思ったら、どういう態度でいるのが得策なんだろうか。

 メソメソするのはブス共の思うツボな展開だと思ったからイヤだった。

 「気にするな」とか「無視しとけばいい」という意見もあったが、敵はこちらが「気にしない」でいることを許さない。顔のまわりをウィーウィー飛びまくる蚊を全く気にせずいられる人がどれくらいいるだろう。

 私が標的にされていることを察知した周りの、「カワイソー」「自分じゃなくてヨカッタ」という、ざーっと引いた空気の中で、平気でいるってどうやってだ? そんな中で「気にするな」と言われて、どれほどの説得力があるというのだ? そりゃあんたは気にせずにおれるわな!

「うるさい! このドブスが!!」と言い返せたらどんなに良いだろうと何度も思ったが、そんな度胸あるわけもなく、結局、ひとり黙って我慢するしか道はなかった。

 そんなある日、私は数学の宿題でつまずいてイライラしていた。うまく解けないことが悔しくて涙が出てきた。たったそれだけのことなのに、涙はいつまでも止まらず、いつの間にか数学の問題はどこへやら、「悔しい。学校へ行きたくない」という言葉が出てきていた。自分の気持ちにまともに向き合って、涙はそのまま五時間止まらなかった。


 事態を重く見た学校の先生は、嫌がらせを止めるよう、全校集会で説教したり、私から事情聴取したり、色々と動いてくれた。

 その結果、ブスたちの一部が、先生のところに自首に来た、という報告を受けた。

 でも、いじめというのは、結局のところ、本人以外にとっては「関わりたくない」ものなのかもしれない。「そんなの自分で何とかしてよ」というのが本音なのかもしれない。


 私は、誰がどんな理由で私を攻撃したのかを知りたかったが、先生は教えてくれなかった。

「加害者もよく反省しているようだから、これ以上この件を追及するのは止めなさい。この件はもう終わり」

 そうやって強引に終わりにされてしまったが、ハイそうですか、とはとても思えなかった。私は、そここそが知りたかったのに。そこが分からないと終わりに出来ない、と思った。

 だけど、そこをいつまでも突くのは禁忌なのかと、無理やりのみこんだが、今なら思う!

 私にはそこを知る権利があるだろう!

 じゃなきゃ、いつまでも終わりに出来ない!


 先生としては「これ以上、事が大きくなるのは御勘弁」ということだったんだろうけど、「私に悪いところがあるから嫌がらせされるのかな」と胃が捻れるほど悩んだ日々が、こんな形でピリオドにされたことは、その後もずーっと私の中にくすぶり続けて今に至る。


 当時のことは、生活の中で折りにつけフラッシュバックし、私は未消化の思いを口に出してしまうが、周りの人からすると、「何を昔の話をいつまでも」と映るのか怪訝な顔をされてしまう。ううう、ツライ。


 長いこと、こんなことで悩んでいるのは自分だけかと思って、未消化の重たい感情を内に秘めてきていたが、いじめに遭って傷ついている人が予想以上に多いことを知って、思いの丈を吐き出すように書いたのが、先日アップした「すみれ色迷宮 〜いじめを経験した全てのひとと、全ての腐れ外道どもに捧ぐ〜」という小説である。

 当時、ブス共に面と向かって言いたかったけど言えなかった、「ブス! ブス! このドブス!」という気持ちを満載にして書いた。

 本当に、いじめというのは人間の尊厳を踏みにじる行為だということを、ブスのみんなはこの作品を読んで思い知るがいい。

 仮に、今更いじめをやめたとしても、貴方が脱ブスなるかは微妙なところだが、被害者にツバを吐きつけられる覚悟で謝罪したら、ひょっとしたらそれ以上のブスの進行は食い止められるかもしれない。

 私が国王などであったら、いじめ加害者には「ブス」の焼きごてをほっぺたに押したあと、市中引き回しの刑に処するぐらいのことはやると思う。そんなことになったらブスの貴方の人生、めちゃくちゃよ。

 でも、幸か不幸か、現時点では世の中はそんなルールではないから、ブスの貴方は今のうちに己を振り返り、それ以上ブス道を突き進むのを止めるほうが良い。

 自分の品性を、自分で台無しにするような愚かなことはしなくていい。

 いじめは止めよう、ひとに優しくしよう、そうやって意識するだけで、本当に少しずつ変わっていけると思う。脱ブスなるかは、そこにかかっている。いじめなんかして、誰得になるというのだ。被害者は病むし、貴方はブスになるだけだ。ブスになりたくないでしょう?

 どうせなら、優しい心を育んでいこうではありませんか。


 私からは以上です。

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