「嫌なこと言うよね」って言われることが多くて辛いし治したいけど、どうしたらいいのか分からない話。

「めんどくさい」、「うざい」、「デリカシーない」、「言わなくて良いこと言うよね」などなど、他者に言われることが多い。しかもそういう言動をしてしまっている自覚がほぼない。気づかない内に他者を不快で嫌な気持ちにさせてしまっていること、ほんとに申し訳なく思う。だから、どこが嫌だったのか聞くけれど、23歳にもなると大抵「色々ありすぎて覚えてない」、「具体的には覚えていない」とか言われてお茶を濁される。ここで思うのは四つ。

一つ目、単純に「ああ人間関係めんどくさいな」ていうこと。特に嫌な事を言っている自覚が無いからいつも青天の霹靂というか、ああ、人を嫌な気持ちにさせることを言ってしまっていたんだ、と急に気づく。その分衝撃は大きいし、感情の落ち込みも激しい。いつもバッドに入る。だからと言って一朝一夕にこの性格を治せる訳ではないのがもどかしい。蛇の脱皮と同じ感じでぬるっとまるっと変われたらいいのになあと思う。

二つ目、「いやお前も結構嫌な事言ってたからな?」ていうこと。大方「こういうところ嫌、治した方がいいよ?」って言ってくる相手に関して自分もある程度嫌だと思うところが溜まっていることが多い。距離が近い分摩擦も生まれやすいんだろうけど、ここで思うのは、なんでそんなに自分は悪い所が無いみたいな顔してこちらを非難してくるの?ってこと。「いやいやそれでいうとお前も、、、」って相手の嫌だったところを論いたくなるけど、その気持ちをぐっと堪えるのがいつものムーブ。だから舐められるし、下に見られることが多いように思う。多分そのまま言っちゃえば関係性を掘って深めていく作業につながるのかもしれないけど、「性格良い」から、というかチキンだから言えない。あんまり人のこと悪く言いたくないっていう純粋で白い気持ちが仇になる。

三つ目、どこまでが「自分のせいなんだろう。」ってこと。自分は男で男が好きな所謂ゲイだけど、それってレディ・ガガのBorn this way論法、つまり「あなたはこういう風に生まれたのだから何も間違えてなんていない」っていう自己を賛美する、ただある程度のエゴイズムを孕んだアイディアに裏付けされている気がする。人種と同じように、性的指向は自分では変えられないものだから、受け容れるしかないし受け容れるべき(他人の迷惑にならない範囲でという条件つきではあるけど)という原理が昨今の人権運動には働いてる気がする。だけどこの原理はどこまで拡張できるんだろう。無自覚に人を不快にさせる言動をしてしまうのは、自分が悪いのか。自責の念に駆られているし、心底謝罪したい気持ちは深くあるけれど、だけどそんなの自分のコントロールの範囲内に無いからな、とか思ってしまう。父親うつ病だったし、祖母はカスハラしてたし。ある種の居直り精神が働いてしまう。俺はこういう風に生まれてきたんだから仕方がないじゃないかって。

四つ目、「ああ、だから自分は友達いないんだ」ていうこと。孤独の再確認。上記ではうだうだ、だらだら語ってしまったけど、誕生日を実際に祝われたことはほぼ無いし、長期休みの予定もほぼ無いし、年末年始に会う地元の友達もいない。3時間の映画を見ても誰からもライン来てないことなんてザラにあるし、学生生活で誰とも話はできたしどのグループにも属しているようだったけどメインメンバーとしてはどのグループにも属していなかった。両親からも多分愛されてはいると頭では分かっているけど実感としてはそれを感じることもできない。ただただ、ずっと孤独。孤独。孤独。楽しい時間もあるけどそれはいつもほんの少しのひとときで、刹那。どうにかしたいけど、23年間こういう風に生きてきてしまったから、脳みその回路を一旦取り出してガラガラポンするしかない。それくらいもうどうしたら良いか分からない。

このモヤモヤどう解消すべきか、変えられるのか、どうしたらいいのか、もう分からない。解決策もしくは、同情や非難の声どしどし募集中です。。。


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