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必要な存在[Footwork & Network vol.25]

私は今、文京区で中高生と関わるボランティアをやっている。その中で、とある日に起こったことから考えることがあったので、共有したいと思う。

b-lab

私は4月から文京区教育センターの中にある文京区青少年プラザ、通称b-lab(ビーラボ)という施設でボランティアをやっている。この施設は文京区に在学・在住・在勤の中高生世代が利用でき、ホールや音楽スタジオが使える他、Switchやボードゲーム、パソコンやiPadなど様々な物の貸し出しを行なっている。友達とおしゃべりするもよし、勉強するもよし、部活の練習をするもよし、ただただぼーっとするもよしの自由な空間だ。こどもたちに学校と家庭以外の第三の居場所を作るという思いの下、文京区から委託を受けてNPO法人カタリバが運営しており、中高生が一歩踏み出してイベントを主催したいと思った時には実現できるような支援体制もある。

私は一回2時間、週2回の頻度でこのb-labに通っている。同じように活動する今期のボランティアは私を含めて10名ほど。何をやっているかというと、すでに何かをやっている子やこれからやろうかという子に声をかけてお喋りやゲームや勉強を一緒にやったり、よく顔を合わせる子に挨拶をしたり、といった具合だ。なんだかふらふらして遊んでいるだけのように見えるかもしれないが、その根底にはナナメの関係という考え方がある。こどもから見て、親や先生がタテの関係、友達がヨコの関係とした時の、そのどちらでもない関係がナナメの関係である。NPO法人カタリバのホームページには、ナナメの関係についてこうある。

「10代は、多くの時間を「タテの関係(親や先生など)」と「ヨコの関係(同世代の友人)」の人たちと過ごします。しかし思春期はタテの関係には心を閉ざしやすく、ヨコの関係には同調圧力で悩みやすいという世代特性があります。本当は、それらとは違った角度から本音で対話できる、利害関係のない“一歩先をゆく先輩” との「ナナメの関係」が必要です。」

ナナメの関係

私は日々活動しながら、この利害も同調圧力もない関係について模索しているつもりだった…

ある日の出来事

7月のある日のこと、私は一人の子とブロックスというボードゲームをやっていた。試しにやってみようかと言った時点で、私のこの日の活動終わりまで残り30分。机の上に広げてさあ始めようという時、b-labで良く顔を合わせる別の子が来た。ちょうどさっき到着したようだった。今日シフトは何時までと聞かれたのであと20分だよと答えると、急に不機嫌になってしまった。たぶんこの場の状況を見て、今からでは私とは遊べなさそうなことを理解したのだろう。何かやりたいことあった?と聞いてもあまりとりあってくれず、隣の机に移りながら、遊ぶ友達がいないから今遊んでくれないと困る、聞いていた時間とずれることもあるし次からは何時に帰るのかちゃんと言ってよとひとしきり怒られてしまった。私はうんうんと言うことしかできなかった。

思い返せば、私が普段中高生と関わる時、怒ったり悲しんだりということはあまりなかった。それは、例えば誰かに何か言われたとしても、なぜそんなことを言うのか理解できれば、怒るより他に何をしたら良いのかを考えようと思えるからだ。しかしこの時は何が気に入らないのかは予想できたものの、なぜ怒るのかが分かるような分からないような、という感覚になり、もやっとしてしまった。

何だかなと思った私は、その日の活動の終わりに職員の方の一人に相談してみた。理由もはっきりせず怒られたこと、どうしたらいいのか。その方は、一人の人間として言いたいことは言ってみてもいいのではないかと意見をくれた。もらった意見の全体をまとめるとこうだ。例えば先生は、先生と生徒という立場の関係上、自分の感情を全面に出すのではなく、まずはこの子やこの場にとってより良い選択を考える場面が多いと思う。一方で利害関係がないからこそやりたいやりたくないなど、状況に応じて個人的な感情でもこちらが思ったことを素直に対話できるのがナナメの関係だと思うということだった。ドラムを教えて欲しいと言われても他に対応することがあったら全然断るし、企画などでも自分がいる意味がないと思ったら、いる意味を問い直してみる。面白いと思わなかったら自分は面白いと思わないと言うのだ。言った上で、じゃあどうしたら良いか、どうしたいかを時間をかけて対話していく。私もあの時、今はブロックスをやりたい、時間は決まっているから必ず遊べるとは限らない、その上でどうしていこうかと話し合えたら良かったのではないか。何も言わなかったのは事を荒立てないためだったのか。

付け加えて私は、その子は遊び相手がいないからつまらないと言っていたが、自分が関わる中で日頃からもっとできる遊びを増やせたら良いのにと思うことや、本人のつまらないという気持ちをそのままにしないで納得してもらえるような言い方ができたら良いのにと思うことを言った。するとその方は、言い方を変えただけで本人が納得しているビジョンはあまり見えない、言葉だけで納得できる場合とそうでない場合があると考えた時、納得できるような経験というのがとても大事になってくる、こちらが一人の人間として思ったことを言うことは、それが納得できる経験の一つになるのではないか、ということを言っていた。

ナナメ

私が約3ヶ月間ユースワークをしてみて、私なりに考えていたナナメの関係の作り方は、「体はヨコだけど視点は少し上」というものだった。実際にやっていることは友達と同じゲームや勉強だし、言うことも友達と大して変わらない他愛のない話や個人的な意見感想だ。しかし視点においてはいつも少し上の俯瞰した見方を持っていて、最も良さそうな行動を選ぶときにこの視点を使うことで、中高生にとってより良い環境の一部になることができる。やらなければいけないこと、今の状況、これからの予測、そして自分の気持ちを冷静に客観的に天秤にかけるのは大人でも難しい。ましてや中高生にはより難しく感じられるのではないかと私は思う。勉強しなければいけないのは十分わかっているけれど、なんだかやる気が出ない、でもやりたい、始めるきっかけさえあればなと思っている時、一言「勉強する?」と聞いてくる存在がいることは、どれだけ力になるだろう。自分だけでも難しいのに、他人の考えてることと置かれている状況を見ることはもちろんより難しいが、できるタイミングを逃さないために観察を絶やさないようにしていた。

しかしこの出来事があってからナナメの関係とはもっと他の形なのではないかと思い始めた。私がもともと持っていた考え方は、「体はヨコだけど視点は少し上」、つまりどちらかというとこちらの感情はある程度後回しと考え、中高生の思っていること、置かれている状況にこちらが合わせていくというものだった。しかしこれだと確かにこちらの考え方は指示や評価などはしないものの、タテの関係に似たものになってはいないだろうか。せっかく親でも友達でもない新しい関係が近くにいて、色々な人と関わり、その中で色々な価値観に触れ、色々な感情に触れることができる機会があるのに、その相手が感情を抑えて皆同じように「面倒を見に」来ているのでは意味がない。思っていることをそのまま伝えつつも話を聞くことができる存在は、確かに親や先生でもなければただの友達でもない新しい関係性かもしれない。そしてこの関係は、ある程度時間をかけて信頼や話ができる余裕がある存在にしか作ることのできないものだと私は思う。

これから

私はこの思っていることをちゃんと言う、聞く、対話する、ということを実践してみようと思う。同じ場所にいるもの同士でお互いの価値観を掛け合わせ一つ一つ合意を積み重ねていく対話の時間のためには、まずは本音が言えるくらいの信頼関係があること、時間をかけてでもお互いの思っていることを言える余裕があること、そしてそもそも自分の思っていることが何なのかをまず自分で把握し表現できることなど、必要なことは沢山ある。個人的には、特に最後が難しい。中高生の成長を含めた対話の中で、自分がおかしいと思ったことはおかしいと言語化できるようにしなければならない。でもこれが実現したら、確かに素敵だ。中高生にとっても私自身にとっても、貴重な経験になるだろう。模索は続く。

b-labは人が成長する場所だ。中高生もボランティアも、日々考え、悩み、成長しようともがいている。4月から9月、10月から3月の半年区切りでボランティアの募集がある。興味のある人はぜひ説明会に参加してみてほしい。

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