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天王山の語源:天王山は、明智光秀から始まったはず! (地図や歴史の視点で言葉遊びをしてみる) 


こちらの投稿は、「大人散策辞典 ”wiki stroll” ~tomoaki blog~」の "Original の記事" を基本同じ内容で、記載している記事になります。Original の記事では、より多くの写真も含め記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。


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【はじめに:天王山と聞いて連想する事】

本ブログ内の別記事で、”分水嶺”なる言葉を使って、「地形的な観点」と「人の意思 / 思い」を交え、言葉遊び的に考えてみました。また、”追分”と言う言葉でも、同様の事をしてみました。両方とも、結構個人的には面白かったので、今回は、”天王山”と言う言葉を、使って遊んでみたいと思います

早速ですが、皆さん、”天王山” って言葉聞いた事がありますよね? 使った事もありますかね? 良く聞くのは、「プロ野球のペナントレースで、リーグ優勝を決めるのに、重要な一戦(=試合)」を指して「天王山」なる言葉が用いられると思います。また、ビジネスのシーンでも、上記に記載した、分水嶺的な意味で、使われる事もあると思います。「ここでの(小さいかもしれないが)1つの結果が、今後に大きな影響を与える」と言った、人の意思が、背後に隠れていると言う事と理解しています。

Wikipediaより:明智光秀
Wikipediaより:豊臣秀吉

【天王山と日本史の関係:秀吉・光秀の山崎の戦い】

しかし、そもそも「なぜ天王山なのか?」 あえてここで記載する必要もないと思いますが、ある歴史上の出来事が、ベースになっている様です。

はい。「山崎の合戦」ですね!

山崎の合戦とは?

本能寺の変で、明智光秀が、主君織田信長を討ち、自身の天下を固めようとする中、羽柴秀吉が、備中高松城で毛利軍と戦っており、水攻め真っ最中にも関わらず、早々にケリをつけ、中国大返しと言われる進軍を行い、本能寺の変から11日後には、山崎の地で、明智軍と対峙・撃破し、秀吉の天下に大きく躍進する契機となった戦い

山崎の地の広域図

この山崎の地は、京都から南西に10-15Km位の位置にある地で、あの有名な会社の蒸留所がある事でも有名ですよね。ここに、標高・2 - 300m程度の山・天王山がある訳ですが、これを、地形図と歴史的観点で考えてみると、この言葉の意味や使うべきシーン・ポイントと言った物が、より鮮明にイメージできると思います。

【山崎の戦いにおける考察:天王山を抑えたのは?】

山崎の戦いの概要を復習しましたので、この戦に関し、地形図や戦略を踏まえ、今少し深堀してみたいと思います。

恐らく、この地を戦場に選んだのは、明智軍だと思います記載の地形図(別記事・縄文海進の考察時に使った地形図ですが…)を見て頂いた通り、この地は、中国地方からくる、大軍勢の秀吉軍を迎え撃つには、絶好の場所だからです。と言うか、この場所しかないと思います

理由は、この場所が、山(高地:天王山)と川(低地:桂川/宇治川/木津川)に挟まれた「隘路」で、4万とも言われる秀吉軍を、1.5万程度の明智軍が迎え撃つには、地の利を活かし、隘路で敵軍に蓋をして、大軍のメリットをなくすしか方法はない為です。南側では、桂川・宇治川・木津川が合流し、北側は天王山である為、大軍の進軍においては、この狭い場所を抜けないと、京都にはたどり着かない。数に劣る明智軍が、唯一勝てる可能性がある地が、この場所だと思います

しかしここには、条件が入ります…。天王山ですね! 地図を見ると270mの標高で、さして高い山とは思えないかもしれませんが、この高低差が、重要なんですよね。中国の軍記の古典「孫子」でも、”兵は高きを好み、低きを嫌う” と言ったメッセージがある様に、高い所に布陣できれば、敵軍の状況も見えますし、鉄砲等飛び道具の威力も増します(逆の言い方をすると低地からの攻撃は難しい…)。敵軍が、頭上からの攻撃を準備をしているところに、しかも狭い行軍路を攻めていきたくないですし、通りたくもないですよね。

つまりこの隘路、「天王山を抑える事で、初めて明智軍に大きなプラスをもたらしてくれる場所」と言う事になります。しかしそこは、秀吉。同じことを恐らく考えたでしょうし、逆に天王山を抑える事で、この戦いを手中におさめる事が出来ると思ったはずです。結果、秀吉方の先発隊が、この場所を先に抑え、「勝負あった」と言う事だと理解しています
(昨今は、この天王山の奪い合いは「創作」とも言われているようですが…)

山崎の地、詳細地図

【最後に:天王山を抑えることが、真に天王山】

戦その物は、皆さんご承知の通りで、秀吉軍の圧勝。兵の数に勝り、隘路のデメリットを受けない状況まで持っていかれては、明智軍は、なすすべなかったと推察できます。その後、これも皆さんご承知の通り、秀吉は天下人への階段を一気に登って行く事になります。故に、今風に、言ってみると、「山崎の戦いに勝利し、天下への道をまい進するために『天王山を抑えることが、真に天王山』」と言ったところでしょうか?

上記の通り、天王山は、秀吉の天下取りの為に、重要な局面で、舞台になった地ですがこれを生み出した地形と、歴史的な背景があって、初めて私達が、今使っている言葉の裏に隠された、本当の意味(メッセージ)が込められると言う事と言って良いと思います。つまり、「天王山は、明智光秀が戦場を定めた事に始まった」と言う理解になった訳です…。

秀吉が初めて城持ち大名になった長浜城 (現存ではありませんが、別記事で紹介しております)

こう考えると、私達が今使っている言葉やフレーズを、地形や歴史の観点で掘り下げてみる遊びは、改めて面白いと思いましたし、いつも新幹線で、通り過ぎてしまうこの地に赴いてみて、秀吉や光秀がその時どう思ったのか、思いにふけってみたいと思うのでした。皆様も、是非足を運んで、秀吉や光秀の思いを感じてみてはいかがでしょうか?

(地図は、地理院の地図に、自身で標高を設定し作成)


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