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#16 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に足を運んで

12月頭、ポーランドに行った。ヨーロッパの冬らしい厚い雲だった。

今回のポーランド旅行の目的はアウシュビッツに行くことだったが、前日までワルシャワやクラクフのクリスマスマーケットを楽しんでいたりしたので、いざ向かう前は足取りが重くなっていた。目にするのが少し怖かった。

日本人ガイドの方に案内を事前にお願いしていた。アウシュビッツに到着すると私たちのグループの他にも日本人が何人かいた。ヘッドホンを渡され、解説をヘッドホンから聞きながら収容所内を見て回った。

友達が丁寧に収容所内のことをまとめていたので引用させてもらう。

見学をしてまず感じたのは、想像より詳細な説明や描写、写真が残っていないこと。絵や写真は数枚ずつしか展示されていなかった。それしか展示してないのではなく、それしか残っていないということだと思う。戦後処理の際に不利にならないように、虐殺の証拠を残さないように統制されていたそうだ。

どれも命がけで残した写真だった
列車から降り、収容所へ向かう人たちの姿。

たくさんの犠牲者が残した靴、かばん、メガネ、食器、髪の毛は生々しさを伝えるものであった。でも私は広島の原爆ドームを見学した時より大きな衝撃を感じなかった。でも、名前が書かれた小さな靴を見たときには少し泣きそうになった。あまりにもむごく、多くの人が殺されすぎて、現実のこととは思えなかった。想像が難しかった。どこか不思議な静けさがある、でも少しだけ張り詰めたような空気をずんと感じていた。

収容される際に脱がされた靴
財産もほとんど没収されていたのにもかかわらず、ユダヤ人としてのプライドを守るためにヒールで来る人もいたそう。

第二次世界大戦中、ユダヤ人とナチスドイツに定義された人たちが受けていてた扱いは、コロナの流行時の自警団や感染者への差別と似ているという説明をしてもらった。分からないもの、先の見えなさに対しての恐怖や県外から来た人を嫌な目で見る感じ、取り締まりをする人がでてくる様子を見てきた経験がユダヤ人がヨーロッパで置かれていた状況とつながった。ナチスドイツ以外からも差別され、職や住む場所を失い、突き出され、逃げる場所もなくアウシュビッツに来ていたことを知った。

もし、私が第二次世界大戦中にヨーロッパに住んでいたとしても、傍観者にならずに、迫害をされている人たちをかくまったり、逃がしたりすることができたのか、通報しなかったか。レンガ造りの建物や狭い部屋にたくさんのベッドが並んだ部屋を見ながら考えていた。自信はなかった。決めきることやスタンスをとることが苦手な私はきっと傍観者の1人になるんだろうなと思ってしまった。
様々なことが明らかになり、被害者の証言や残され、ナチス政権の異常さがはっきりと分かり、それを歴史として学んできた今だからこそ、その異常さを理解しているけれど、当時圧倒的な支持率を持ち、実態を隠されていたら、と思うとその異常さに気づけていたのか分からない。

今もウクライナとロシア、イスラエルとパレスチナ、ミャンマーやその他にもたくさんの内戦や紛争が起きている。どんな情報を信頼してどう判断するのか、まだできていない。友達との間で話が出たときも、話を聞くに徹して自分の意見を言うことを避けてしまう。

私は色々な視点を持ち、できるだけ多くの人の気持ちが理解できるような人になりたいという理想があった。
でも、視点を持っているだけで、判断ができない、主張ができない自分の弱さを痛感した。どちらにもならない、ということは傍観者になるのと一緒だよね。

問いをもらった時間だった。行ってよかったなと思わせてもらった。

犠牲者の名前が読み上げられていた。

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