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これでいいのか?障害者への向き合い方✖️教育😕

おはようございます!
週一投稿目指して頑張ります。

今回は、健常者の障害者への向き合い方について考えたいと思います。
いろいろ思うことがあるんですよー。😗

まずはじめに、「障害者」と言う表記ですが、「障がい者」や「障碍者」は使うつもりはありません。
害という字が、差別的な意味を持つとか、障害者は害じゃないとか、、、
そこは本質じゃないだろ!!って思うんです。
障害=あることをするのに妨げとなるものや状況 のことを指します。
当人にとって、何かをするのに妨げとなることがあるよね、って話であって、障害がある人が害だとか、どこからその考えが浮かんだのかが分かりません。
(逆に害だけ見て、平仮名にしろって方が失礼では?)
学校や地域などでも、「障がい者」と表記していれば、配慮できていてえらいね!ってなってますが、それは本質から遠い話です。
さも障害者への配慮が進んだ場所である、とアピールしたいのかは分かりませんが、文字を変えただけでは何も変わりません。
大事なのは、「障害者」であろうが「障がい者」であろうが、その言葉を使うときにどんな思いで使うか、です。
そこに差別や偏見はあるのか?これに尽きると思います。

また、当事者が表記をどう感じているのか、の方が大切です。五体不満足の乙武さんは、害の平仮名表記に関して違和感を述べています。
害は障害者ではなく社会にあるもの。それを隠す形になるのはいかがなものかと。たしかにーってなりました。

文字をどうするかなんて、障害者の話を木に例えると、葉っぱの先っぽのようなものです。
そこじゃなくて、幹の話、根の話をしましょう。



前置きが長くなりましたが、障害者との向き合い方に関して気になることがありました。

私は教育を学んでいる大学生なのですが、少し前にとある小学校に伺って、障害者との向き合い方、人権感覚の涵養についての取り組みを教えてもらう機会がありました。
その学校では、障害のある子どもと健常な子どもは学ぶ場所が違い、普段から交流する機会はほとんどありません。お互いにお互いをあまり知らないのです。

そんな中、その学校の卒業式の動画を見せてもらいました。
その動画は、障害のある子どもたちが、6年生を送り出すための演奏をするシーンでした。
ベルを使った演奏です。子どもたちが舞台の上で横並びになり、両手に持ったベルを自分の音階のときに振ります。
ホールには椅子が並んでいて、健常な子どもたちはそこに座って演奏を聞いています。

演奏が始まる前、舞台の幕が上がると同時に、障害のある子どもたちの姿を認めた健常な子どもたちは、話すのをやめました。一気にしーんと静まりかえります。
これは他の祝辞や他学年の演奏には見られなかった光景です。他の場面はもう少しざわざわしていました。
静まり返って演奏を聞き、演奏し終わると盛大な拍手が続きました。これも他の場面よりも大きな拍手です。長い長い拍手があって、動画は終わりました。


これを聞いてどう思いましたか?
わー、素晴らしいじゃない!って思いましたか?
ちゃんと人権感覚が育った子どもたちだなぁ!って感じましたか?
これを見せてくれた学校は、このように本校では人権感覚に力を入れています!って自信を持っていました。

私はというと、、、、😐
何かおかしい気がする。。
なんだろうこの違和感は。。これでいいの、、か?
私の頭の中はこんな感じでした。

誤解を恐れずに言うと、ベルを使った演奏は質の低いものでした。
タイミングもずれているし、リズムもバラバラ。
途中まで何の曲か分からなかったほどです。
演奏の質だけで考えるなら、拍手はそこまで大きくなりません。

ではどこで評価するか。それは頑張っているかどうか、になると思います。
別に下手でもいいじゃないか、頑張っていればそれだけで素晴らしいよ!
それはその通りだと思います。
けれど、頑張っているかどうかなんて分からなくないですか?
まずそもそも、演奏を聞いている子どもたちは、障害のある子どもたちとは別の場所で普段学んでいる訳です。健常な子どもたちは、障害がどの程度なのか、どんなことに困難を抱えているのか、などは知りません。
じゃあその子が頑張っているかどうかなんて分からないじゃないですか。
頑張っているけど演奏は下手、なのか、頑張っていなくて演奏が下手、なのか。
ここが分からないですし、この差は大きいと思います。

頑張っているかどうかなんて、演奏する様子を見たらわかる!って意見もあると思います。けれど、それって大人でも難しいことだと思います。
その子の能力や限界を知っていて、その上で能力の上限近くまで力を出していれば、頑張っていると判断できます。
この場合でいうと、演奏を聞いている子どもたちは、障害のある子どもたちの能力や限界を知りません。なのに下手な演奏で大きな拍手をしているんです。

これはどうしてか?
私は、「無意識に障害者を下に見ている」からだと思います。
相手の能力は知らないけれど、障害者だからこれぐらいだろう、と低く見積もる。
そして、その能力にしてはここまで演奏できてすごいねってことで頑張っていると判断、評価して拍手をする。

これは私たちにも当てはまることだと思います。
障害者を下に見ているからこそ、こうした行動を取る。そんな経験ありませんか?
そして、これは健全な姿でしょうか?

一見すると、子どもたちが障害者に配慮して静かに聞き、大きな拍手をしていて素晴らしいものに見えます。
けれど、子どもたちは無意識に障害者を見下していて、だから静かに聞いてあげる、下手でも大きな拍手を送ってあげる。それを見た先生は、我々の教育は正しかったんだと感じる。

これは単に、「障害者を見下す気持ちを、社会的に悪くない形に表面化する方法」を教えているだけではないか?って思うんです。
これでは真の人権感覚とは言えないと思います。
障害者を見下す気持ち、はまだあるのですから。
この点にアプローチする、具体的には、障害者も対等な人間である、ということを教えることが必要であると考えます。

どうやって?
物事はシンプルに考えるべきだと思います。
一度障害者、健常者という括りを忘れて、考えましょう。
能力どうこうは置いておいて、最もシンプルな原理原則。
相手の態度と同じように返す
これに尽きると思います。

相手が真剣であれば、こちらも真剣に返す。
相手がふざけていれば、こちらもふざけて返す。
これだけのことです。
これは人間関係や授業などにも当てはまると思います。
授業で先生が真剣に話していれば、真剣に聞くべきだし、テキトーに話していればテキトーに聞いてもいいんです。
上記の演奏の例でも、頑張っているかなんて別にいいから、とにかく真剣かどうか。
真剣に感じたかどうか。
真剣に感じたなら真剣に返すべきだし、そうでないと感じたなら相応の返し方でいいでしょう。

障害者がふざけていると笑いにくい、笑っていいのか分からない、って話があります。
それも単純で、相手がふざけているなら、こちらもふざけて笑ってもいいんです。
腫れ物に触るように接するのは、どちらのためにもなりません。

あとは、ふざけているかどうかの見分け方。ここは症状の問題もあるので、各障害について教えたり、学んだりしなければいけないところです。
ここにも原理原則は生きてきます。
相手は真剣に生きているのだから、こちらも真剣にその人の症状について学ぶべきです。

障害者だから真剣に聞く、のではなく、相手が真剣だからこちらも真剣に返すんです。
障害者だから笑わない、のではなく、相手が真剣だから笑わないんです。

このことを肝に銘じて、「子どもたちに障害者との向き合い方」ではなく、「人との向き合い方」を教えられるようになりたいです。

「相手の態度と同じように返す」

このシンプルな原理原則を心の中に留めておきたいです。

読んでいただきありがとうございました!
不快にさせたら申し訳ないです。
ここはおかしいんじゃないか!とかあれば教えてほしいです。
ありがとうございました。

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