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無意識に現実と比較して虚構(アニメや漫画)を軽んじていないか?

「グリッドマンユニバース」を視聴して、改めて虚構の力、その存在について考えさせられた。

虚構は現実とは違い私たちの想像によって作られた作り物、まがい物である。現実そのものを変えるような、現実に置き換わるようなものでない。
どんなに魅力的で目を奪うような素晴らしいストーリーでもそれは現実の劣位に置かれる。

虚構は何もストーリーだけではない、現実に見えないもの、現象や感情のようなあやふやなもの、国家という私たちがなんとなくあるように感じるもの、観念的なものすべてである。
今回、虚構はアニメや漫画などのキャラクターやストーリーのある作品群に限定して考えていく。
そのような虚構を、現実と比較しないで、どちらも同列で考えていけばいいではないかという作品がある。

「グリッドマンユニバース」では、主人公がいる世界は別の高次の存在によって創り出されたことを知る。そのことに、多少の戸惑いはあれど人間は事実ばかりを信じているわけではない、作り物だっていい、その時々で自分たちは自分たち自身で選択してきた。それでいいじゃないかとその世界を肯定し、自分たちの存在を受け入れている。

「アリスとテレスのまぼろし工場」でも、主人公のいる世界がある時を境に神によって一瞬を切り取られ、永遠の箱庭に閉じ込められていることがわかる。現実での世界は時を刻んでいるが、主人公たちの世界は成長や痛みのない、停滞した変わらない世界である。そんな状況を、愛する者がいるのなら生きていようが死んでいようが関係ない。その世界がすべてであり、外の世界(現実)なんて知ったことではない。俺たちは好きに生きるという捉え方である。

アニメや漫画などのフィクションは子供のものであり、大人はそれらをきっぱり卒業し(辞め)、現実に戻るべきであるといったフィクションを幼稚なものと捉える考えがあるがそれは、現実の世界を優位に置いた考え方だと思われる。しかし、上記の作品は現実とフィクションに区別なんて必要ないのではないかという切り口で物語が展開する。

アニメとは紙に絵を描くという始まりからして虚構である。
いい大人がアニメを見るべきではないという考えは虚構と現実をどちらが上か下かという優劣が根底にあるからこそ生まれるのである。確かに、私たちの肉体は現実にあるため現実を主軸に考えなければならない。しかし、精神はどうだ。私たちは物語を見たり、聞いたりして涙を流したり、熱い情熱を感じたりと喜怒哀楽を想起させられる。時には、作品に感銘を受け、これからの将来を決定する者もいる。

人間はフィクションを信じることのできる存在だ。
であるならば、虚構は現実と肩を並べる、いや、時には凌駕することもあるだろう。アニメや漫画を受容した際、本物の世界で味わうことのできない形容しがたい感動を感じたことがあるはずだ。

アニメや漫画の力はすごいと囃し立てるが、その力を軽視するような一歩引いた位置でとらえている節はないか? 
我々現実を良い意味でも悪い意味でも変えることのできる力は虚構の存在を示す証左ではないか? 
そうでなければこれほどまでに私たちの趣味嗜好、行動、考え方を変化させることはできない。

そんなわけで、アニメや漫画などの虚構は現実の下、隷属であるという意識が私たちの根底にあり、その考えはアニメや漫画などの虚構で構成されている作品たちを縛り付ける鎖となり、作品の持っている本来の力を抑制しているのではないか? という何気なしに考えたことを取り留めもなく文章に起こしてみた。

皆さんはどう思うだろか? サブカルチャーという文字が現在の状況を顧みて、メインカルチャーでは? と感じるぐらい街中でキャラクター見られるようになった昨今。ANIMEやMANGAがすごい、CoolJAPANと呼んでPRするが私たちはそれらの力を確かに信じ切れているか、どこか軽んじている気持ちがあるのではないかと私は思ってしまう。

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