じゅうぶんに悲しくなれる  ― 小池昌代詩集『コルカタ』(思潮社)

小池さんが朗読をするところや、座談会をしているところを、僕は何度か見に行ったことがあった。もともと、詩人を見にわざわざ外に出かけて行くようなマメなタイプではない。でもなぜか、小池さんの出演している時にだけは、行ってみようかなという気持ちになる。どうしてだろうと、ある時考えて、そののちにやっと、小池昌代という詩人が僕にとってどれほど特別な存在なのかということに、気付くことになる。
 初めて小池さんの詩に出会ったのは、もうずっとずっと昔のこと。あのころ、たくさんの詩集を短期間に読まなければならない仕事が来ていた。元来、詩を読むことが生きる楽しみの一つである僕にとってさえ、うんざりするほどの量の詩集を、連日読んでいた。今夜はこの一冊だけ読んで止めにしようと、手に取った詩集の、(それが、小池さんの第一詩集だったわけだ)初めの詩の初めのところを読んだだけで、僕はすでに得体の知れない空間に、気持ち良く漂っていた。そうなってしまったらもう、「詩を読む」なんていう生易しい動詞では表すことはできない。別の新しい動詞を日本語に作りたくなるような、奇妙な状態になっていた。これはいったいどうしたことだろうと、最後まで読み切ってから考え始めた。同じ日本語を使って書かれているのに、どの単語も、今まで見たこともない姿をしている。どの表現も、しっとりと新鮮な水気に浸されている。どの比喩も、背後から眩しいほどの光が差し込んでいる。毎日使っている日本語なのに、こんなことがいったい可能なのかと、僕はしばらく茫然として、そこに書かれている詩人の名前を見ていた。
 それからしばらくして、僕は個人的な理由で、文学から意識して背を向ける日々を送るようになった。だから、その後に小池さんがどれほど素敵な仕事を重ねて来たかを、知ることはなかった。僕は誰の詩を読むこともなく、ただ毎日、日経新聞だけを読み、ネクタイを締めてせっせと働いていた。
 僕が、十何年振りかで再び詩を読み始めた時には、小池さんはすでにたくさんの量の詩を書き上げていた。つまりは、いちどきに小池さんの詩を、息が詰まりそうになりながら、まとめて受け止めることになった。もちろん読んでいるあいだずっと、幸せな気持ちでいながら。

『コルカタ』は、小池さんの詩集の中でも、ちょっと毛色が変わっている。すぐに気付くのは、それまでの詩集よりも、言葉をなめらかに出そうとしていること。意識の中を複雑に巡らせてからではなく、直接に言葉を吐き出そうとしている。
コルカタに行った時のことを、文化の違いに目を見張るようにして書かれた詩も、たしかに面白い。でもさらに興味深かったのは、詩集の後半で打ち明けているように、これらの詩が、毎朝小池さんに運ばれて渋谷の書店に持ち込まれていたという事実だ。なんだか耳元にまで、はっきりと聞こえてきそうな詩人の足音や息遣いに、新鮮な感動を覚えてしまう。インドでの出来事をなぞるようにして書かれた詩が、日本に戻った作者の心を、もう一度あらためて揺さぶっている様子を、読者は伴に体験することができる。朝の書店に今日の詩を届けて、その日のインドを運び終わったときのホッとした気持ちや、渋谷の街を帰途につく時にさえ、インドに大きく取り巻かれている姿を、この詩集は鮮やかに見せてくれている。

『コルカタ』はインドについて書かれた詩集ではない。むしろ、小池さんが、これまで必死になって生きてきた自身の源を、真剣に覗き込もうとしている詩集なのだと、僕は思う。だから小池さんのプライベートにじかに触れることができるし、直接小池さんの悲しみのそばを通ることもできる。そして言うまでもなく悲しみを共有することによって、ぼくらも十分に手元で、悲しくなれる。

印度は 穴
のような国ね
虫に食われた奥歯の穴
そこを入り口として潜っていく
(略)
だんだんと 奥歯 痛みだし
どのテキストも どんなテキストも
ずきずきと
どんなに言葉を積み上げたところで
ずきずきと
最後 すべては 泥にかえる (「泥」より)

どんな立ち向かい方の詩集も、小池さんが書いたものであれば、僕は間違いなく好きになってしまう。ましてこの『コルカタ』は、書くという行為の正直さにおいて、傑出した詩集だと、僕は思う。あるいは、コルカタを腕に抱えて朝の渋谷の街を歩く小池さんの、生きることの透明な悲しみが、幾重もの空を通して、読者に存分に与えられてくる。

(今日、昔のメールを見ていたらこの書評が出てきた。2011年に書いたもののようだけど、どこに発表したものかもうわからない。)

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