見出し画像

トビー・フーパー、『悪魔のいけにえ』、今更観る名画の薦め。

 最近、偶然映画好きの方と知り合うきっかけがあって、その方と深く映画の話をする機会に恵まれました。
 しばらく互いの趣味を探るようなやり取りがあったあと、
 「一番好きな映画はなにですか? 」
 と、お決まりの質問に行き着いたのですが、その方は、

「私はテキサス・チェーンソー・マサカ―(邦題『悪魔のいけにえ』)ですね」

と答えました。当然、僕もこの映画の名前くらいは知っていましたが、あまり自分の好みとフィットしているとも思えず、これまで避けて来て観てはいなかったのです。
ですが、
 「あの映画が、一番好きです」
 とその方の口調は断固としたもので、なにか揺るぎないものがあった。彼の映画の知識も、並大抵ではないものがあったので、「それではじゃあ、観てみるか……」という気持ちになって、とうとうこの映画を初鑑賞したのでした。

ネットでの映画視聴はすっかり便利になって、大抵のメジャー作品はネットフリックスやアマプラで観ることが出来る。『悪魔のいけにえ』は有名な作品ですから、少なくともどちらか片方にあるだろうと踏んだのですが、どちらにもない。いくら有名と言っても、映画好きやシネフィルの間での常識であって、まだまだ一般層には波及しない名作であったようです。「過去の名作はなかなか手に入らない」というのは、映画好きの体験するもどかしいあるあるですが、久しぶりにこうしたややマニアックな映画を観るので、「そうそう、良い映画を観るって、こういう感じだったな」とにそにそした想いを抱えながら、当該の映画を探したのでした。

結局、ゲオのネットレンタルで無事見つかって、DVDを注文し、配送された翌日には無事に鑑賞へと辿り着けたのでした。生活に塗れてすっかり映画から離れている僕は、こうした苦労自体がどこか懐かしくて、喜ばしい。「良い映画を観ることそのものに苦労する」こと自体が、僕のなかの「映画体験」として刷り込まれていて、その想い出というかある種の感傷が刺激されて、なんとなくウルっと来るものがある。まあとにかく、僕はやっとこの映画を観たのでした笑。

さて、開始して数十秒で分かったのですが、これがとてつもない名画だった。
 もともと持っていた僕の印象としては、所謂「B級映画」を、マニアや偏狭なオタクたち(失礼)が過度に賞賛しているのだろうと踏んでいた。僕が長年この映画を避けて来たのもそうした事情だったのですが、事実はまったくそうではなかった。「B級」や「A級」という分類にまったくかかわりなく、奇跡のように物凄い映像作品だった。

観始めてすぐに、「ああ、これはとんでもないもの」と察して、そこから食い入るように映画を観て、あっという間に終わりまで観てしまった。

自分のことをシネフィルなどと口が裂けても言えませんが、それでも、多少はたくさんの映画を観て来たつもりではある。でも、こんなに観終わって興奮した映画は、久しくありません。「すげえ、すげえ」と大はしゃぎしながら観たのは、もう何年も前に観た、塚本晋也監督の『鉄男』以来かも知れません。それくらい、歴史的な名作を観た実感が、鑑賞後の僕のうちに湧き上がったのです。

映画は好き好きですから、名画の定義も千差万別あるとも言えると思います。むかしのようなシネフィルたちによる「良い映画とはこれだ」というような、批評による上からの価値づけも難しくなってきましたから、いよいよ、おのおのが自分の好みで映画を観たら良いのだと思います。そのうえで、僕自身もあくまでも僕の好みとして語るのですが、これほど「表現」が「生」である映画は、そう滅多に観られないのです。

僕が映画をジャッジするポイントのひとつは、なんと言っても、「定型に頼らない」というところです。

映画も突き詰めればひとつの言語ですから、撮り方や、編集には、どうしても「こう撮ったら次はこう」、「こうカットしたら、次の場面はこれ」というような、プロ的な決まりごとが出てくる。

もちろん、プロに近づくとは、そうした「定型」を上手く扱えるということにほかならないとは思うのですが、僕は、真に美しい映画は、この「定型」から離れたところで、撮影が行われていると思う。

例えば、僕らが小説家だったとします。僕のような凡人は、物語の冒頭で「雪が降っていた」などと書きたいのですが、普通はここで、「しんしんと雪が降っていた」などと書こうと考えると思います。

・しんしんと 雪が 降っていた。
 
 しかし、この三つの単語の結びつきは、すでにこの世にあり、すでに出来上がっているものです。僕が現実を観察し、そのうえで頭を働かせて、言語を組み立てたわけではありません。言ってみれば、この文章は僕の「知識」であって、「表現」とはなんら関りのないものです。

・夜の底が白くなった。

というのは、川端の『雪国』の冒頭の一節ですが、これはうえのような「定型」ではありません。僕の知る限り、真夜中の地面のことを「夜の底」と書いたひとは、川端のほかにひとりもいないからです。つまりこれは川端が現実を観察し、自分の頭を働かせ、そのうえで苦心して組み立てた、彼独自の「表現」ということになります。僕の言う「定型から離れる」とはこうした苦労仕事のことで、すでに出来上がっているものを、再度、自分のものとしてアップし直す行為のことではありません。
 僕が思うには、良い映画にもこれと似たような「定型から逃れる」もどかしい「労苦」があるように思うのです。

さて、テキサスチェーンソーに話を戻すと、この映画は「定型」ばかりで撮られた映画とは、一線を画した独創性がある。ひどく斜めっている変なショットもあれば、明らかに頓珍漢な無闇な顔のアップもある。結局は映画も少なからず「定型」を駆使しなければ作品を完成させることはできませんから、この映画も、すべてが定型から逃れているとは言いませんが、しかし、何度も何度も、まるでうんうん唸りながら歩む牛のように、必死に必死に、頭を働かせ、時にその作業そのものを愉しみながら、監督はもどかしく定型から逃れている。
 そして、そうやってしか、たぶん「表現」というものは、真実のものにならないのだと思います。

この映画には、これと言った「学び」もなければ、社会に対する突き付けるような疑問提起も見当たりません。そこにあるのは、「定型」から逃れようと努めた監督の苦労の跡と、その苦労によってやっと出現する、監督の心象を写した映像的な風景だけなのです。

僕の経験から言えば、このような、監督の心理と密接に関係する映像的風景が観られるのは、本物の名画のなかでだけです。そして、この映画にはそれがある。

一見すると単なるB級映画なのですが、黒澤明の『羅生門』や、塚本晋也の『鉄男』に匹敵する、あまりに素晴らしい映画でした。
 
 今更この映画を薦めるのは、あまりに時代遅れなのですが、観終わった直後の感動が強すぎるあまり、これを人に薦めずにはいられません。

 僕のようにB級感に尻込みして食わず嫌いしている方がいたら、ぜひ偏見を打ち捨てて、この素晴らしい独創的映像美をご覧になってみてください。観終わったあと、名画を観終わったときにのみ味わえる魂の揺れる想いが、必ずやあなたを襲うことをお約束します。

 それほどに、この映画は素晴らしい映画なのです。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?