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教えないという教え

どう?辞めたくなってる?

いきなり何だ!と思っただろうか。
私は心配しているのだ。
世の「新人さん」達を。

あちこちに辞めたくなってきてしまった新人さんがいる。
新社会人である患者さんにも看護師側にも、向かいのホーム、路地裏の窓、こんなとこにいるはずもないのに〜♪

いるよ。いるんだってば。


GWを終えたあたりでまず1発大きめの「辞めたい波」が押し寄せる。

毎日緊張しながら出勤し、緊張しながら仕事をし、緊張しながら昼ごはんを食べ、緊張しながら先輩達の雑談に愛想笑いを浮かべ、緊張しながら午後も仕事をし、緊張しながら家路につく。
おはようからおやすみまで暮らしをみつめる緊張。
職場のトイレだけが唯一ホッとできる場所だ。
トイレの中でだけは深い深いため息を吐く。
そして思う。
トイレが仕事場なら良かったのに。
(思わないね)

私の周りの新人さんにも、どうやら辞めたい気持ちに傾いている子もいるようだ。

話は少し視点を変える。
指導する側はどうだろう。
指導もなかなかに難しい。

特に精神科での指導は感覚的なことも多く「あの患者さん、なんとなくいつもと違うから観てきて」「何だか違和感があるから話を聴いてきて」とフワッとしたことを新人さんに伝え、新人さんも「よく分かりませんでした」とフワフワ戻ってくる。
無理もない。

同期達と「指導」や「教育」の話になると、私は必ずダメ出しされる。
「相変わらずゆるいわー。」
「ちょっと甘すぎない?」などなど。

そもそも私は厳しさが似合う人間ではない。
もし私が明日から急に「教場」のキムタク演じる風間指導官のようになったら周りは爆笑するに決まっている。
(ちょっとやってみたい)

上司からも事あるごとに「アンタももう少し威厳みたいなのが身につくと良いんだけどね。言ってもアンタは精神科の重鎮よ?」と小言を言われる。

しかしそんなときも私は「重鎮………重鎮サンダー・ライガー!!!」などと下らないことが頭に浮かんでしまいニヤニヤしている。
私に「威厳」を求める方が間違っているのだ。

ちなみに私の長年の指導方針は基本「自由にのびのびやってちょ!」である。

もちろん一通りの基礎看護技術はきちんと指導する。
また、患者さんの心身に危険が及ぶような誤りに関しては未然に制止する。
しかしそれ以外のことは敢えて細かいことを具体的に教えることはしない。

何故なら精神科看護には明確な「正解」というものは存在しないと考えているからだ。

例えば熱発している患者さんにクーリングをおこない解熱剤を投与すれば熱は下がるはずである。
この一連の看護は誰が行っても同じ結果になるだろう。

しかし精神科看護ではほぼ同じ対応を行ったのにも関わらず、誰が対応したかによって結果が大きく異なることがある。

誰が、どのような対応をしたかで得られる結果が違ってくる。
これこそが精神科看護の最大の魅力であり、私が精神科から離れることが出来ない理由の一つである。

たとえ同じ言葉を声掛けしたとしても、看護師Aと看護師Bの対応は「同じ対応」とは言わない。
看護師の口調、声のトーン、表情、しぐさ、全体的な雰囲気。
そして何より看護師それぞれの人間性やキャラクターにより「看護」の色が変わってくるからだ。

患者さんと看護師との関係性を築いていく中で知識や技術が必要なのはもちろんだが、それ以上に看護師の「人間性」や「キャラクター」が重要となる。

看護師ひとりひとりに育ってきた過程があり、それぞれが異なる感受性や価値観を持っている。
何が正しく何が誤りということはなく、何が優れていて何が劣っているということもない。

ちなみに私は新人さん達に「どんな風に精神科看護を勉強しているのですか?」と尋ねられると必ずこう答えている。

必要なことの殆どをブルーハーツと寅さんとBUMPから学んだぜ。


「だぜ」とは言ってない気もするが、まあそんなことを答えているのは確かだ。
また、小さい頃からの親の教えも大きく影響しているだろう。

甲本ヒロトから「♪僕の右手を知りませんかー♪」と解剖生理学を学んだとか、寅さんから「注射なんてえのは迷わずぶすっと打ってみりゃあ良いと思わないかい?なあ、お嬢さん。」と諭されたとか、そういうことではない。
(そりゃそうだ)

これまでの人生で出会った全ての経験を通し、自分の中に育ててきた価値観や感受性、哲学のようなものをフル稼働して行なうことが精神科看護であると思っている。

だから私は新人さんから「患者さんが死にたいと言っているので対応をお願いします。」と呼ばれても「うん、ほいで?私は何すれば良いの?」と返している。

「えー。めっちゃ意地悪〜。
どうすれば良いのか優しく教えてあげたら良いじゃん。ちょー可哀相〜。
だから結婚できないんだよ、このナース。」

やかましわ!!!

これは大事な場面であり、新人さんが真剣勝負で患者さんと向き合う良い機会である。
対応によっては信頼関係への大きな一歩となりうる。

というよりも実は教えることなど無いのだ。

確かに私はこれまでにも患者さんから「死にたい」気持ちを幾度となく表出され、そのつど対応してきている。
しかし、患者さん1人1人が抱える「死にたい気持ち」は同じではない。
そのため毎回どのように対応するのが正解なのかは私にも分からない。

今までの長い(新人さんと比べたら)経験を活かし「ひとまずこういう声掛けが無難かな」なんてものがあったとしても、それを教えることはしないほうが良い。

なぜなら、面白くないから。


私は観たいのだ。
新人さん1人1人がどのように対応するのかを。
そして患者さんがどう反応し、更に新人さんがどう次の看護を重ねるのかを観たい。

こちらが全く思いつかないような、新人さんならではの対応や患者さんの反応を目の当たりにして「なるほど!この患者さんにはこういう対応が響くのかあ!」「あいつ、なかなかの勝負に出たな!」「スゴいこと言ったな今!」と目からウロコ大放出で感心することもある。

だからと言って、その対応をそっくり私が真似してみたとして必ずしも同じ効果が得られるわけではない。
それが面白い。

新人さんから学ぶこともたくさんある。

だからこそ私が一方的に「教える」のではなく、新人さんには「自分という存在を目一杯に使い、自由にのびのび看護してほしい」と思っている。

中には失敗を防ぐために先回りして1から10まで全てを教えてしまう指導者もいるが、あれはとても勿体ないと思う。

「命に関わること以外はどんどん失敗してちょうだい。」

これは私が新人時代に師長さんから言われた言葉である。
おかげで遠慮なくたくさん失敗した。
たくさん失敗してたくさん考えてたくさん学んだ。

そうこうしているうちに時は流れ、同期からは「ゆるい」「甘い」と、上司からは「威厳が足らない」と言われる「私」というポンコツ看護師が出来上がった。

個々の患者さんへの適切な対応方法や正解は教科書にも参考書にも載っていない。
ベテラン看護師の言うことも絶対とは限らない。
いつだって自分の目の前にいる患者さんから学ぶしかない。

患者さんこそが私たち看護師の1番の指導者である。

これからも私は細かく具体的なことは何1つ「教えない」だろう。
「指導」とは私のコピーを育てることではない。
「私」という看護師は1人いれば充分だ。

「自分にしか出来ない看護」
「自分だからこそ出来る対応」 
それを1人1人が見つけることができれば、辞めたい気持ちは自然と小さくなっていくのではないだろうか。

とうの昔に「辞めたい」を乗り越えた私達は、そのことだけ新人さんに伝えることができれば充分なのかもしれない。


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