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精神科看護と私

これまでにも仕事のことを何度もnoteに書いているが、私の仕事は「看護師」である。
精神科看護師として20数年働いている。

「看護師として働いていこう」と決めたときから「精神科」で働きたいと思っていた。

高校時代の進路指導の教師に「心を看れる看護師になりたい。」とキラッキラした汚れない瞳で訴えていたのを覚えている。
瞳はキラッキラだが理数の成績はボロッボロで、とくに微分積分で「6点」という点数を叩き出したときには校内中がざわついていた。
親と兄は爆笑していた。

さらに物理も化学も特徴的な教師の物真似だけは誰よりも上手かったが、テストの点数は本当にひどかった。

私は病院付属の看護学校への進学を希望していた。
のどかな田舎の海っぺりにある大きな病院で、当時すでに850床あった病床数のうち300床は精神科病棟という「精神科」に力を入れている総合病院であった。

精神科病棟は急性期閉鎖病棟、身体合併症病棟、開放病棟、社会復帰病棟という形に分かれていた。
その他にも精神科デイケアや訪問看護もあった。

いくら充実していて魅力的な病院だからと言って、入学試験に受からなければ話は始まらない。
ましてや微分積分6点の私である。

が!心配ご無用!!


人生とはなかなか上手くできたものである。入学試験要項を読むと試験は2日間おこなわれ、1日目の学科は「国語、英語、数学」の3つ。
2日目は「小論文2本、面接(3回)」と書かれている。
「尚、合否は小論文と面接を重視」と書いてあるではないか。

学科は壊滅的でも小論文は得意だ。
面接も好きではないが頑張って「自分がいかに精神科で働きたいか」を伝えれば良い。
ただ「3回」という面接の回数が引っ掛かっていた。
ちょっと多くないかしら、と。

しかしこの時点で私にはナイチンゲールが手招きしているのが見えていた。
割としっかり目のカタコトで「オイデマセ…イッショニ看護ブチカマシマショウ」と言っていた。

そんなこんなで試験当日を迎えた。
2日間とも父が会社を休み、車で送迎してくれることとなった。
ナイチンゲールに手招きされた私だが車内では流石にバッキバキに緊張していた。
寒気がしてきた。真冬だから無理もない。
それにしても寒すぎる。
足がカタカタ震えて来た頃、私はあることに気づく。

「……!!お父さん!
後ろ全部ガラガラじゃん!!」
「そりゃ平日の朝早くだから空いてるだろ」
「じゃなくて!窓全開じゃんよ!!」
「誰だ!!開けたの!!」
「オマエしかいないだろ!!」

という馬鹿馬鹿しさ300点満点の会話を父としながらナイチンゲールの待つ試験会場へと車は走った。


試験は大きな講堂で行われ、壁を囲むようにユニフォームに身を包んだ先輩たちが試験監督として立っていた。
リアルナイチンゲール様だ。
「うっひょ~!かっちょいい!」と私はハシャいでいた。

国語、数学、英語の順に学科テストが行われた。
そして最後の英語のテストを受けているときに事件は起きた。
講堂の後方、出入り口のドアの辺りが何やら騒がしい。
学校の教務や先輩達が数名駆け寄っていくのが見えた。

父だ。


「試験中につき立ち入り禁止」の立て札をスルーして講堂の中を覗いていたところを警備員に見つかったようだ。
講堂の重たい扉が閉められる瞬間、5センチくらいの幅の父の顔が見えると共に「おい!かをちゃーん!頑張れよお!!」と叫ぶ父の声が聞こえた。

私は他人のフリをした。

2日目。面接はグループ面接であり、受験生は5人ずつのグループに分けられた。
廊下に丸椅子が5個ならんでいる。
待機場所にも在校生がついており、私達の緊張を和らげるために色々と話しかけてくれた。

面接が3回ということが気になっていた私は先輩に尋ねる。
「3回も一体誰と面接するのですか。」
1回目は看護学校の教務。
2回目は病院の看護主任や婦長。
3回目は病院の医師(部長)や副院長、院長とのことであった。

ちょー怖え!!

急に逃げ出したくなった。
しかしナイチンゲールが「ダイジョウブ…オチツイテ…ヤレバデキルヨ…」と言っている。
カタコトで。

1回目の面接が始まった。
ちなみに5人グループで私の試験番号は最後、つまりトリというかオチの担当であった。
皆の回答を聞けるというお得なポジション♪と喜んでいたのも束の間、私の邪な想いを嘲笑うかのように1人1人に対し全く違う質問がなされていった。

北海道から来た子に対しては「地元の名産品」が聞かれていた。
「夕張メロンです。」と答えるのを横目で見ながら私はドキドキドキドキしていた。

私の番になると一斉に教務達が笑い出した。
「あなた、昨日お父さん大変だったわね。」
「ユニークなお父さんねえ。」
「今日も一緒に来てらっしゃるの?」

…………。


その後も「あなたの家族について自由に話して下さい。」という謎のインタビューで1回目の面接は終わった。

間髪入れず病棟婦長さん達との面接だ。
「あら。あなた、昨日はお父さまが大変だったんだってね(笑)」と、ナースキャップに何本も線の入った総婦長さんが笑顔で言った。
「可愛いがられて育ったのね。」
「お父さまとの思い出を話して下さい。」

なぜ父の話を…と思いながら、私は父についての数々のくだらないエピソードを話した。

中学の授業参観のことだ。
技術工作の授業で小さな棚を作っていた。
私の不器用さに苛立った父がどんどんどんどん前に出てきてしまい、最後には私からノコギリを引ったくって木材と一緒に私の親指まで切ってしまい流血沙汰で大騒ぎになった。

幼い私のために山でブランコを作ってくれたこともあった。
完成した途端どうしても自分が1番に乗りたくなった父は、私が「ずるいずるい!」とギャン泣きするなか意気揚々とブランコを大きくこいだ。
ブチっという音と共に薮の中に落下し、背中を強打した父は病院に運ばれた。

手を叩いて笑う婦長さん達を見て「面接とは…」と不思議な思いを抱くと同時に私はある事に気づき始めていた。

あ。これ、落ちたんだな。

父がブランコから薮の中へ落ちたように、私もまた入学試験というブランコから真っ逆さまに落ちたのだと確信した。

学科は手応えが無かったうえに、父は不審者である。
そうか、そうか。
もう不合格と決まっているからこんな面接内容なのか。

そんなことをボンヤリ考えていると「あ、そうそう。ところであなたは何科に勤めたいの?」と聞かれた。

ぽい!やっと面接っぽい!!

すっかり鳴りを潜めていたナイチンゲールがスカートをたくし上げて猛ダッシュで私の元へと戻ってきた。

「私は精神科に勤務するために看護師になりたいです。」

ゲラゲラ笑っていた婦長さん達は今度は怪訝な顔となりざわつき始めた。
微分積分6点以来のざわつきである。

「精神科を怖いと思わないの?」
「テレビで看護師や看護学生のドキュメントが報道されても、精神科は殆ど報道されません。なので私は精神科がどういう所か知りません。どんな患者さんがいるのかを知りません。知りたくても分からないのです。
だから怖さもありません。」

ざわざわざわざわざわざわとザワついたまま婦長さん達との面接は終わった。
4人並んでいるうちの右端にいた色黒の婦長さんが、退室する私をものごっつい笑顔で見送っていたのが印象に残った。

同じグループの子達からも「精神科に勤めたいの?」と不思議がられながら3回目の面接会場へと向かった。

看護学校の校長でもある医師と、各診療科の部長先生、副院長、院長との面接である。

「あなたのお父さんが昨日捕まったの?」と院長がニコニコ笑顔で物騒なことを口にした。
面接を重ねるごとに、父は不審者から容疑者へと進化を遂げていた。

校長を務める医師が「精神科に勤務したい、てのもあなた?珍しいね。まあ、良いか。」と私に向かって目を細めて言う。

お医者さん相手の面接では「お母さまはどんな人?」「印象に残るしつけや教えは?」と今度は母について色々尋ねられた。
母をたずねられて三千里だ(?)。

予想していたような、シュミレーションをしていたような質問は1つもされないまま3回の面接が全て終わった。

駐車場で待つ父のもとに向かうと、父は勝手に病院の花壇の草むしりをしていた。
私を見て大きく手を振り「手応えどう?どうよ?」としつこく聞き、私は不安しかなかったが心配させまいと「つかみはOKだよ!」と答えた。
父は「よーしバッチグーだな!」とご機嫌だった。

そして私は何故か合格した。


そして3年間の月日が流れ、あんなことやこんなこと、それからあんなことやこんなことなんかも経て国家試験に無事に受かり看護師となった。

そして私は希望通り、急性期閉鎖病棟に配属された。
入試の面接のときにものごっつい笑顔だった色黒婦長の病棟だった。


実は、このnoteはここからが本題だ。


「嘘だ、信じられない!
時間と労力を返せ!!」
分かる。私も読み手だったらそう思う。
正直言うと書き手としても「なんかもう良くない?これで。」という気持ちになりつつある。

しかし書きたいことがある。
先日、某新聞の記者が日本精神科病院協会の会長に「身体拘束」についてインタビューしている記事を読んだ。

その中で記者が「拘束をして心が痛まないのか」と会長に聞いていた。
会長への問いは私への問いでもある。

痛まないよ。(痛まねぇよ。)


気づくと私は声に出していた。
もし私たち看護師の心が痛んだからと言ってそれが何だと言うのか。

泣き叫ぶ患者さんや必死で抵抗する患者さんを拘束する際に、1ミリも心が動揺しないかと言うとそんなわけはない。
嫌だよな、つらいよな、ともちろん思っている。

しかし私達の痛みなんぞは耐えるべき痛みであり、患者さんの心と体を守るのが最優先されるべきことである。

精神保健指定医という資格を持った医師の指示のもと、私達は訓練された適切な方法で患者さんを拘束する。
それは「暴れる患者さんを懲らしめてやろう」などという懲罰的なものでは決してない。

自傷他害のおそれがある場合に、患者さんの心と体を守るためにやむを得ず拘束するのである。

心が痛んでもやる必要がある。

拘束のエピソードで忘れられないことがある。
自傷と離院のおそれがあり、両上肢および腹部の拘束が施行されている患者さんがいた。
あるスタッフが巡視から戻り「窮屈だと訴えて可哀想だったので少し緩めてあげた。」と言った。

慌ててその患者さんのもとへ行くと腹部と片方の手首は既にすり抜けており、もう片方の手首も力いっぱい引き抜こうとしていた。
患者さんの手首は何ヶ所も擦りむけて血が滲んでいた。

もし完全にすり抜けてしまい自傷に走ってしまっていたら、と考えると恐ろしかった。
そのスタッフにとっては「窮屈で可哀想だ」という、ある種の「優しさ」からの行動であったが結果的には「誤った優しさ」となってしまった。

この記者も「近視眼的な手軽な優しさ」しか見えていないように私は感じた。

先の会長へのインタビュー記事で、とても印象に残る会長の言葉があった。

「地域で見守る? 誰が見てんの? あんた、できんの? きれいごと言って、結局全部他人事なんだよ」

「社会は何も変わんねえんだよ。みんな精神障害者に偏見もって、しょせんキチガイだって思ってんだよ」

言葉こそ乱暴に聞こえるが、会長の言葉は「現実」であり「本物」だ。

少しずつ精神科に対する垣根が低くなってきているのかもしれないが、まだまだ偏見はなくなってはいないだろう。
現に外来では「地元で知り合いに見られたらイヤだから」と随分遠方からやってくる患者さんもいる。

私はそういった偏見を「何としても失くすべきだ!」と言いたいわけではない。
ある程度は仕方ないことなのだとも思う。

入試の面接で私は「精神科を知らないから怖くない。」と答えたが、同じように世間は「実際の精神科を知らないから怖い。」し「マイナスイメージの方にフォーカスされることが多いから怖い。」のである。

事件が起きたときに「容疑者は精神科への通院歴があったということです。」という言葉は聞いても「皮膚科への通院歴があった」とか「呼吸器科での治療歴があった」とかは聞いたことがない。

「通院歴」があっても中断してしまう患者さんは残念ながらとても多い。
それは精神科の一部の疾患のもつ「病識の欠如」からくるものだろう。
「自分は困っていない、つらくない、病気ではない。だから病院に通う必要はない。」という思いから通院が途絶えてしまう。
サポーティブな存在がなければ尚更だ。
となれば病状は悪化していく一方である。

通院あるいは入院をしていて、適切な治療を受けている患者さんはそれなりに安定して過ごすことが出来ている。
自分の病気を理解しようと努め、どのような時に自分は不安定となりやすく、どのような対処方法が適しているのかという事をちゃんと分かっている人も多い。

病棟や作業所あるいはデイケアなどの「小さな社会」で自分という存在や役割を認めると同時に、他者の存在も認めてバランスをとり生活している。
もちろん失敗やトラブルもある。
それは私達と同じことだ。

抑うつも軽躁も、過度な不安や妄想に近い思考も強迫観念も、絶対に自分とは無縁だと言えるだろうか。
一生懸命に生きてる以上、誰にでも起こりうる症状なのではないだろうか。

「ああヤバい。もう何もかもイヤだ。何も出来そうもない。このまま全て投げ出して何処かに行っちまおうかしら。」
学生さんのレポートが山のように溜まり、研究は進まず、職場での事故が続き、家庭もドタバタ、恋愛もめちゃくちゃ、それなのに増え続ける体重…という時に私はそんな気持ちになったことがある。
私の言う「何処か」は沖縄だったため、幸い今日もこうして生きている。

希死念慮というのも私達が考えるほど特別なことではなく「一旦すべてナシにしたい」といった気持ちの延長線上にあるように思う。


そして私が精神科に勤務して長年ずっと感じていることは、精神科の患者さんは往々にして優しいということである。
繊細で健気だ。
生真面目で我慢強く頑張り屋さんだ。
些細なことに敏感で、他者のことをよく見てよく考えている人たちだ。
ただ、それらが「過ぎる」のかバランスが上手く取れないような不器用さんたちだ。
(もちろん一概にそうとも言えない患者さんもいる。いる。

私は20年以上の時を経ても「精神科看護」が好きだ。
それは精神科の患者さんが好きだからとも言える。
とは言え「私の精神科看護とは」という答えは未だに見つけることが出来ていない。

ただ、目の前の全ての患者さんに「余計な傷はつけないこと、傷を増やさないこと」と「1日1度は笑ってもらうこと」は20年を超える看護師生活の中でずっと守っている。

あともう1つ続けていることがある。

毎日患者さんと共に在ることである。

そんなことで患者さん達を救えているとは思わないが、私に出来ることはこのくらいだ。

ナイチンゲールは私を見て「オイ!20ネンデソレダケカヨ!オマエシッカリシロヨ!!」と嘆いているだろうか(カタコトで)。

私の看護師人生はまだしばらく続く(と思う)ので、ナイチンゲールには申し訳ないがどうかもう少し長い目で温かく見守っていてもらいたいと思う。


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