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身内の他人

驚いている。そして呆れている。
なんと久々のnoteとなってしまったのだろうか。
前回の投稿が11月7日なので1ヶ月以上も経過しているではないか。
(ちなみに11月7日のnoteで私は「今年の漢字」をはからずも当てている。ウェ~イ♪)
そんな私は一体毎日何をしていたのか。

特に何もしていないのである。

何もせずとも日々は過ぎ行く。
月日の流れは恐ろしく速い。
小田急線の急行くらい速い。
小田急線に乗ったことはないけれども。
やっぱり速いといえば新幹線が1番なのだろうか。
それはそうと年末年始の新幹線だが、今年は混むのだろうか。

いや、違う違う。
今回のnoteを、特に詳しくもない電車の話で今年の締めくくりにするつもりは全くない。

今年ラストに書くことは決めていた。

恋文だ。(ドヤっ)


あ、待って待って!
そこのアナタ!お待ちください!!
回れ右した方々、もう少しお付き合い願いたい。
もう少しと言わず、出来たら最後までダラダラとお付き合い頂きたい。
寝転がって、各々お好きなおつまみ片手にオナラでもしながらお付き合いくださいまし。

「何食べ」。


「何食べ」をご存知だろうか。
私は「きのう何食べた?」というドラマが大好きだ。
ドラマの内容をざっとまとめると、同性同士(男性)のカップルが1つ屋根の下に暮らし、美味しい食事を作って向かい合って食べ、日々の見落としやすい幸せを大切にしながら暮らしているホンワカ日常ドラマである。
(大丈夫?合ってる?)

いわゆる「ゲイ」のカップルを西島秀俊さんと内野聖陽さんが演じている。
本当にリアルにガチに付き合っているのでは…と願う思うほど、ドラマでの2人のやり取りは素敵である。

このドラマの中で、ケンジ(内野聖陽さん)の母親がシロさん(西島秀俊さん)に伝えた言葉がとても素敵だった。

「他人でも身内ってことはあると思うのよ。」

ドラマ「きのう何食べた?」より

このときケンジの母親(と姉2人)とシロさんは初対面であった。
ケンジの母親が「息子の恋人と会っておきたい。」と望んでの対面である。

対面を望んだケンジの母親の想いは「シロさんと1度でも顔を合わせておけば、もし息子に何かあったとき(亡くなったとき、の意)シロさんを息子の身内として一緒にお見送りさせてあげられる。」というものであった。
シロさんの「でも(自分は)家族とは違う立場である」という答えに対するケンジ母の言葉が先出の「他人でも身内ってことはあると思うのよ。」である。

私はこの場面が本当に好きだ。
ケンジ母の言葉に強い衝撃を受けた。
テレビの前でオイオイ号泣してしまい、最後には「お゛え゛ぇぇぇぇ」とえづいていた。(私はえづきやすい)

最近は「多様性」「さまざまな家族の形」「新しい家族のありかた」など何となく素敵な感じの言葉が独り歩きして拡がっている。
果たして実際はどこまでが「家族」として認められ、必要な権利が与えられているのだろう。

「家族」の定義を調べてみた。

「血縁と婚姻を基礎として共同生活を営む集団」
「夫婦、親子を中核として血縁、婚姻関係により結ばれた生活共同体」

血縁と婚姻。重たく、そして濃ゆい。
私は40半ば(見た目は33歳。いや本当に。マジで。)独身である。
兄がいたが、さっさと空へと還ってしまっており永らく会っていない。
他に姉弟はいない。
父82歳、母70歳ともに立派な年寄りである。
(書いていて気づいたが、我が家には老人と初老しかいないではないか。その割に食費がかさみ、エンゲル係数ブチ上がりファミリーである。)

両親が亡くなったのち「家族」はいなくなり、私は「1人」となる。
そのことに日々悩み、怯え、嘆きながら暮らしているかというと当然そんなことはない。
たまに「孤独死」の文字が頭をよぎることもあるが、それこそ新幹線並みのスピードで通り過ぎ「そんときゃそんとき〜。なんとかなるなる〜。フゥ〜!」という楽観ぶりである。

1人暮らし歴が長かったため、1人きりでの生活ということに対する不安や淋しさもさほど感じない。
むしろ1人の空間や自分のペースが好きだ。

かなりのアホではあるが、実は基本的になんでも1人で出来るタイプである。

しかし。


ふと考える。
今は良い。
ギランバレー症候群の後遺症はあれど、日常生活と社会生活がほぼ自力で行えるほどに元気である。
看護師としての仕事も続けており、人との関わりは濃密(すぎるほど)にある。
推しもいる。たくさんいる。
12/16に東京ドームで推し(KinKi Kids)を間近に観たが、それはそれは麗しくお元気そうであった。
舞って舞って舞い狂っておられた。
その他にも、時間を忘れて没頭できるものがたくさんある。

しかし。
この先もずっと、今のままの自分でいられるだろうか。
体力や気力。その他もろもろ。
あの千代の富士を以てしても「体力と気力の限界」を迎えたではないか。
この私の体力と気力なんてたかが知れている。
えいやー!と多少の無理をして乗り越えられていたことを、この先も本当に乗り越えられるだろうか。

家族は誰もいない。
体は衰えてくる。
働き方も変わってくるであろう。
KinKi Kidsも歳をとる。(とらなそう)
もう私のために舞ってくれないかもしれない。
友達や従姉妹はいても、みんなには家族がいる。

急な入院で保証人になってくれる人はいるだろうか。
恥ずかしさを感じずに「お気に入りのパンツと靴下、あとカミソリ持ってきて!本気の方のカミソリ!」と頼める人はいるだろうか。

そう考えると「1人」はやっぱり少し怖いし寂しい。

「1人」は怖くないが「独り」は怖い。

人は誰もが「1人」である、と私は思っている。
「家族と他人」ではなく「自分と他者」という分け方が私の基本である。
「家族」は「他人」ではないが「他者」であり、家族だからといって何でも理解できるわけではなく、何でも有りでもない。
世の中は「自分」と「自分以外の他者」で成り立っている。
当然ながら自分もまた「誰かにとっての他者」である。

その「他者」の中に当然「好ましい人」「好ましくない人」がいる。
当たり前だが「好ましい人」が好きだ。
性別、年齢、外見、職業など関係なく「好ましい人」のことはただただ無条件に「好き」だ。
好ましい人とだけ丁寧に関わっていきたい。

若い頃は「恋」という言葉があちこちに溢れ「胸がキュンとして」だの「あの人を思うとドキドキして」だのと皆が口にしていた。
しかし四十路になり胸キュンだの動悸だのと言えば、それは「恋」ではなく「胸部症状」であり循環器内科への受診一択である。すぐさま受診の必要がある。
早期発見なら怖くない。

胸キュンはもう要らない。
むしろ人として好きかどうか、尊敬できるかどうかが私にとっては大切だ。

何気なくて当たり前で、凪のように穏やかな関係の「他者」が欲しい。

一緒に暮らさなくとも良い。
(出来れば別が良い。
お隣さんかお向かいさんが良い。)
おばあちゃんになってもシルバーカーを押しながら行けるくらいの距離が良い。

普段は1人ごはんでも良いが「今日は誰かとお喋りしながら、笑いながら食べたいな。」のときの誰か。
とても嬉しいことがあった日、あるいは悲しいことがあった日に一緒にお酒を飲める誰か。
どうやっても届かない部位に湿布を貼ってくれる誰か。(剥がすのも頼む)
大風邪で動けないときに冷えピタとポカリ持って看病してくれる誰か。
なんでもない日に公園や植物園を一緒にぶらぶらしてくれる誰か。
「日が短くなったね。」とか「あの花がそろそろ見頃だね。」とか言い合える誰か。

人生に「1人」で立つことが、どうにもしんどくなった時にちょっとだけ支えてくれる誰か。
なにも優しく手を取り支えてほしいわけではない。
ただニヤニヤニコニコと隣にいてくれるだけで良い。

「親子」や「婚姻」という強固な結びつきがあっても、互いを想い合うことや支え合うことが叶わない関係もある。
それならば「他人」と呼ばれる関係であったとしても互いを尊重しあい、想いやれる「他人の身内」のほうが私は良い。

そんな「他人だけど身内」な誰かが私のこれからの人生にいてくれたら良いなと思う。

1人になった私が人生を終えるとき、今にもおっ死(ち)んでしまいそうなときを迎えたとする。
担当医が「こりゃあもうアカン!すぐに患者の家族に連絡を!!」となったとき、看護師さんは困った顔で「先生、この患者さんに家族は誰もいません。」と言うだろう。
書いてるだけで泣きそうだ。

そうして家族でも身内でもない「他者」にだけ見送られることを考えると、なんとも味気ないではないか。
せっかくなら「他人だけど身内」の誰かに見送られ「あなたのおかげで面白い人生だった!あーりがーとさーん!」と元気に(これから死ぬってのに)挨拶くらいして逝きたいものだ。

逆に、私の大切な「他人だけど身内」の誰かが先におっ死んでしまいそうなとき(想像するのもイヤだけど。ずっと楽しく生きていてほしいけど。)には片時も離れず「大丈夫だ。なにも怖くはない。」と変顔の1つも披露して見送ってあげたい。
アヴェ・マリアだって歌いあげる所存だ。

そして、もしもその「誰か」が自分の今の好きな人であるならば、どれほど良いだろう。
好きな人にとっての私が、いつか「他人だけど身内」のような存在になれたのなら、どれほど素敵だろう。
「恋人」「夫」「パートナー」など、関係性を表す呼び名はどうでも良い。

「ここいちのときにはこの人しかいない。この人でなければ絶対にいけないわけではないが、この人が良い。」

好きな人と、私はそういう関係を築きたい。

この夢が叶ったら、すでに充分楽しい人生がもっともっと楽しく豊かになるような気がしている。

そうなるために何をしたら良いのか、何を頑張れば良いのかは皆目検討もつかないが、私はきっとこれからも「好きな人」をただ心から「好き」でいるだろう。
その人が困り果てたり、心が折れそうなときには1番の応援団長でいたいと思う。

その人を想う気持ちこそが、今ここに立つ私の支えとなっているのだから。






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