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ゲオルグ・カントールと岡潔ー数学思想という幻の世界ー

1.はじめに

 まず、僕は『「無限」に魅入られた天才数学者たち』(アミール・D・アクゼル著、青木薫訳、早川書房、2015年)を読んだ。そして、その感想を書こうと思った。あなたは数学が好きだろうか?

 僕はこの本と出会ったのはよく利用する近くの図書館の、科学を楽しむための本が置かれているコーナーでだった。僕はその小さな本棚に差し込まれたこの本を見つけて、すぐに手に取った。

 僕は高校の時、文系を選んだ。数学が得意で、国語が苦手だった僕が文系を選んだのは、理系に男子が多く入ることが予想され、ホモソーシャルが苦手な僕は、それを、避けようと思ったからだった。

 今でもずっとその時の選択を後悔している。

 結局、僕は浪人までして、果ては、東京大学の第一類を受けて、撃沈。最後まで、国語の点数が伸びず、歴史も、論述問題が振るわなかったからだ。理系であれば、ワンチャンスあったかもしれない。

 学力自慢?そうではない。

 僕には居場所がなくて、高校の先生に、「お前のような奴は東大や京大にいるから頑張れ」と言われ、せっせと玉砕しに行っていただけだ。

 居場所がないというのはとても辛いことだ。僕はほとんど生存をかけていたが、受験勉強するうちに、本当にこの先に僕の居場所があるのか、どんどん自信がなくなっていった。

 正直、受験勉強を、僕は好きではなかったし、この勉強が得意なものたちの集まりが、果たして僕の居場所となるかは、疑問だった。

 今では、大学を卒業して、フリーターなんかやっている。本当の研究は既存のアカデミズムにはないなんてほざきながら。ほとんど負け犬の遠吠えに等しいね。

 さて、だから、理系には未練がましい気持ちが残っている。僕は数学が得意だったし、理系なら、ワンチャンス、東大に入れたかもしれないと、まだ自惚れているし、就職も、研究にしたって、道があったかもと。

 馬鹿だねぇ。

 マァ、だから、科学を楽しむ本棚のコーナーに惹かれたわけで、そして、この本を手に取った。他にも、『種の起源 上・下』とか、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』とかあったけど、これにした。

 いやはやどうして?

 天才数学者って、良い響きだよね。僕は、僕の大好きだった曾祖母が天才で、高校の数学教諭だったから、気になったし、彼らの物語や発想を見聞きして、僕自身、強く憧れもしててね。

 (ハァ?このマザコンが!いや、グランドグランド?おい、クッソ、ややこしいな。もうマザコンでいいわ!天才数学者に憧れだぁ?文系選択のフリーターがもうなれる余地ねぇよ、クソボケが!)

 それと、他にも理由がある。

 僕は哲学かぶれでもある。それは、僕が哲学肌だってこと。生まれつきも多少あると思うし、少し繊細な所もあって、特に、人間関係では、孤独の極みを走っている。

 (やれやれ。人間関係を避けるから、余計、対人スキルが上がんねぇんだろうがよ。もっとガツガツ行けよ、ガツガツとな。それになぁ、数学の「無限」と哲学の「無限」を組み合わせる気か?アホか。)

 こうして、僕はこの本を借りた。借りた日から早速読み始め、何冊も並列して読む僕は、何日かかけて、ようやく読み終えた。所々、分からない所があったが、マァ、仕方ない。

 感想を書く間に、カントールと岡潔の深い繋がりと、数学思想という何とも望ましくない思想を思いつき、タイトルが異様になった。

2.数学思想?何それ?

 この本は、タイトルの通りの本だ。ただ、少し変わった特色を持っている。それは、数学史の中で「無限」が実無限として扱われるまで、そして、扱われて以降の話だけでなく、哲学や宗教での取り扱いを書いている。

 特に、この本は、数学において実無限を扱い出した、ゲオルグ・カントール(1845-1918)に焦点を当てている。だから、彼がユダヤの家系のことを踏まえて、ユダヤ教、特に、カバラのことを描いている。

 カバラはユダヤ教の神秘主義である。カバリストとはユダヤ教の神秘主義者たちを指す。起源はA.C1世紀まで遡ることができ、12世紀では、スペインの地でも、カバラが知られるようになった。

 神秘主義とは、神秘体験に根差すものである。神秘体験とは忘我の体験である。お香や音楽、踊りや薬物、瞑想やお酒などの方法によって、忘我に至るのだが、その際に、神との合一が果たされ、真理が開示されるとする。

 ここに、神は無限(エン・ソフ)であるとの発想が生まれた。

 亡命ユダヤ人たちには、スペインから、デンマークやロシア、ドイツに移動する流れがあり、おそらくは、カントールの家系も、この流れに属しているらしい。

 そして、亡命ユダヤ人たちにはありがちなことに、それぞれの居住地において、表立ってはキリスト教の洗礼を受け、家の内々において、ヘブライ語を用い、ユダヤ教の伝統や信仰が守られていた。

 カントール自身もまたその通りであり、ユダヤ教の流れの中にあった。そして、当時のドイツ数学界において、新しい潮流をなしていた解析学に分け入って後、「無限」の概念に魅入られていく。

 先取りして、カントールの後年の話をすると、カントールは連続体仮説の研究と、度重なる数学界の保守派からの攻撃によって、入退院を繰り返し、ほとんど研究がまともにできなくなった。

 その時、カントールにとって、ℵやת、連続体仮説は、研究の対象ではなく、神の啓示であり、神そのもの、つまり、信仰の対象になっていた。

 さて、本書を書いた著者の手つきやカントールの人生に思い出す所があった。それは、日本の天才数学者、岡潔(1901-1978)だ。岡潔の情と情緒の概念を思い出したのだ。

 僕が岡潔を知ったのは、2018年2月23日に放送された、読売テレビのスペシャルドラマ『天才を育てた女房』だった。それまで、僕は日本にこんな数学者がいたとは知らなかった。

 その際、僕はたまたま郷里の広島を離れて、東京大学の二次試験を控えて、東京にある母方の祖母の姉に当たる大叔母のマンションに、何日間か連泊させてもらっていた。

 結果は、先ほど言及した通り。僕は、結局、今や2.75流ほどに落ちぶれてきている東京の大学に入学したわけだが、苦い思い出だ。

 僕は大学に入って、何冊か岡潔関連の本を読んだ。大学の頃の僕は大学に不満たらたらで、大学の教員たちも、他の学生たちも、誰彼構わず見下しまくっていた。

 最低だったなぁ。

 以下、読んだ本を掲載しておく。僕がどんな本を読んで、岡潔を理解してきたかを示すための参考として。

①『数学する人生』(岡潔著、森田真生編、新潮文庫、2019年)

②『数学する身体』(森田真生、新潮文庫、2018年)

③『岡潔 数学の詩人』(高瀬正仁、岩波新書、2008年)

④『春宵十話』(岡潔、角川ソフィア文庫、2014年)

 岡潔は和歌山県育ちの数学者。京都大学を出て、京都大学や広島文理科大学などで教鞭を取った後、大学を辞職している。この間、フランスへの留学経験がある。和歌山県の実家に帰省して、一人、数学を極めていた。

 当時、数学界の中心地はドイツからフランスに移行しつつあった。そんな熱気溢れるフランスに、岡潔は留学している。まだ、この頃は、岡潔もひよっこ学者に過ぎなかったが、スイスに寄って、大事な発見をしている。

 その発見は、数学上の発見ではなかった。

 日本に帰った後の岡潔も、当時の日本の学界に受け入れられず、ストレスで、脳が物理的に腫れてしまって、頭痛に悩まされたり、奇行に走ってしまったりと、危ない状態になることがあった。そして、大学を辞職する。

 多変数複素関数論を先に押し進め、日本の片田舎、単独で未知の世界を切り開いた岡潔。今は、数学界では「層」の概念に重要な役割を果たしているらしい。

 だけど、僕には理解できない。

 小話として、フランスでは、岡潔が和歌山県の片田舎で、単身、数学の新しい世界を切り開いている中、ブルバギという数学者の集団が、また、数学を新たなるステージへと向かわせようとしていた。

 そして、極東の島国からくる岡潔名義の論文たちに首を捻った。岡潔があまりにも一人手に新しい数学を生み出すので、彼らは岡潔を、日本の数学者の集団の名義なのではないかと、勘ぐっていたそうだ。

 閑話休題。

 スイスでの大事な発見は岡潔の思想の起点となっている。それは、岡潔が遠い国にあって、故郷の日本を想う心があり、松尾芭蕉の俳諧を、日本から取り寄せて読んだことが契機だった。

 松尾芭蕉は江戸前期の俳人。随筆『奥の細道』で有名な彼は、今、常時フルマラソン人間の落合陽一もお気に入りだ。僕は落合陽一の疲れ具合や老け具合が心配だ。燃焼感で誤魔化しているのかもしれないが。

 古池や 蛙飛び込む 水の音

 松尾芭蕉の有名な句だ。日本の人なら、一度は見聞きしたことがあるのではなかろうか?それで、だから、何を言いたいかって?岡潔の思想を読み解く時、松尾芭蕉は大事だって、そういう話。

 岡潔は道元や漱石もよく読んでいる。道元も曹洞宗で、禅に関係がある。漱石を思想と繋げる道はまだ僕自身見つけてないが、おそらくその道を見つけることはできる。

 松尾芭蕉の解析へ。

 イマージュをまず導入する。イマージュとは、体験される感覚イメージ全体を指し、また、全体でしかあり得ない体験を指している。表現に視覚イメージを重視するニュアンスがあるのは、ご容赦を。

 このイマージュという体験において、イマージュの湧出(可能な勢いの単位)や威力(可能な力感の単位)が、時間において顕著な場合に、つまり、ある瞬間に、没念と、それらが情緒として結実する。

 ここで、イマージュの中において、特権的な地位を与えられている感覚イメージがある。心の動きを感覚して生じたイメージだ。

 つまり、イマージュという体験において、情緒が生じる時、この動覚イメージがよく機能しており、イマージュという体験に、ハッとする気づきや、嗚呼といった感嘆を生じさせている。

 僕は決して芸術の研究者ではないが、作品を解析しようか。

 「古池や」は、古い池って、なんだって感じだ。マァ、寂れた感じがするってこったね。この、寂れた、というのは、注目に値する。ここには、時が流れてしまった、との、慨嘆がある。

 「蛙飛び込む」は、静寂を突っ切って、蛙がぴょんと飛んだ。しかも、古池に飛び込んだ。それで、「水の音」、ぽちゃんと音がしたという。おそらくは、水面には波紋が広がっていたことだろう。

 ここにも、時の流れが関係している。

 ぽちゃんという音も、波紋も、耳に響いたり、波を立てたりして、その後、消え去っていく情景が思い浮かぶ。心に、嗚呼という感嘆を残して、消え去って行くのだ。

 ひんやりと静まった古池の佇まいや空気。きっと緑の香りもしていて、じめじめとした湿り気もあって、苔が蒸した岩や転がっていて。そこに、蛙が池に飛び込む瞬間が訪れる。

 視覚効果も、聴覚効果も、他の感覚に訴えかける鋭さもある。特に、肌感覚を呼び起こすことも大事だろう。

 だが、動覚イメージが最も大切なのだ。イマージュという体験の根であり、イマージュという体験の一体性の源の、「持続」をこれが捉えるからである。

 主客未分だの、彼我一致だの、一口に唱えている学者たちには、辟易する所がある。何故って、抽象概念を弄んでいるだけだし、イマージュという体験の独特の位相を、探究できてもいないのだから。

 突き詰められていないのは、時間である。

 言葉を定義しなおし、考究したい。時の流れとは、時間そのものであり、時間とは、時の流れが尺度を伴う場合の呼称だ。この際、時の流れは、実感レベルでは到達できない、ある種の飛躍を必要とする真理だ。

 体験される時間において、時の流れは、ある種の尺度を伴わざるを得ないが、しかし、それは、ある絶対時間からの相対的なズレとして、速度や加速度が変化する形で記述できても、それ自体と絶対時間は関係がない。

 体験される時間の自由度は持続による。イマージュの識別と体験される時間が交差する時、絶対時間への扉が開かれる。

 イマージュの識別、つまり、空間の出現と同時に、尺度が取り出された時間への扉を開く。体験される時間から尺度が疎外された時、ようやく識別される時間が生じて来るのだ。

 体験される時間には現在が繰り返されるだけだ。基本的に、現在の体験の中にあって、過去や未来は存在しない。それが、識別された時間にあって、過去や未来が存在してくる。

 識別時間があれば、イマージュには時間記号が付され、新旧の感覚がもたらされる。そして、侘びと寂びが問題になってくる。

 侘びと寂びは戦国時代を生きた茶道家の千利休が茶の心を表した概念である。だが、江戸時代の俳人の松尾芭蕉と通ずる所がある。侘びと寂びの概念とは何なのか?

 侘びは壊れていく様子を感ずる情緒、寂びは壊れてしまった様を感ずる情緒に対応する。それは、時の流れの中において「もの」が壊れていく過程と結果への情緒とまとめられる。

 では、「もの」とは何なのだろうか?

 ここで、生物学を入れてみよう。「エントロピー、ネゲントロピー、磁場を縫って走れ、八百万の谷超えて」(平沢進『夢見る機械』)

 シュレーディンガーは『生命とは何か』の中で、エントロピー増大の法則に抗う、負のエントロピーを食う者としたが、結局、我々は敗れ去る運命にあり、敗れ去ってしまうのだ。

 「もの」。これは、イマージュの識別された単位であり、とりわけカントが『純粋理性批判』において物自体と呼称した延長を基体とする。マァ、西洋哲学だけが人間の世界観ではないのだけど。

 ユクスキュルは『動物と人間の環世界への散歩』において、カントを引き合いにしながら、独自の環世界の概念を組み上げた。

 生物は、受容器、知覚神経細胞、運動神経細胞、実行器、さらに、主体と環世界をセットとして、両神経細胞(群)が両記号を生み出し、物自体に標識を投影する結果、主体は環世界に機械操作系として生きる。

 環世界はイマージュと対応する。重要なのは、識別とイマージュの分離であるし、物自体という超越概念への再考だ。要するに、物自体もまた構成された概念に過ぎない。

 本能は知覚標識と運動標識の出現のし合いと打ち消し合いの連鎖的かつ自動的な生理現象だ。本能が支配する段階では批判性の獲得は困難だ。

 理性が支配する段階では、批判性がある。ある程度、本能という高次な機能から、それぞれが分離し始めるからである。そうして、物自体もまた、イマージュの単位、識別イマージュと断定できる。

 もちろん、イマージュの構成自体もまた記号や識別に基づくが、イマージュの優位性を唱えられるとすれば、生命が持続であり、イマージュが持続によって溢れ出したものだという、この一点による。

 循環性は突破できる。いや、突破しなければならない。自己組織化に留まっている生物学者は目を覚まして欲しい。

 僕はベルクソンの『創造的な進化』に基づいている。

 この本は、実質的に、主語、述語、目的語、副詞、形容詞、助詞、助動詞など、言語の形式性を破壊する。言語学は、今、オノマトペとアブダクション推論で進んできているが、まだまだだ。

 この本が重要なのは、持続が、単位を構成していることである。動きそのものである持続が単位を構成した結果、生命が生まれた。そして、生物も生まれたのだと主張している。

 準備は整った。

 イマージュの単位、識別イマージュが「もの」であり、それは、識別空間をも生じさせるし、記憶には時間と空間の記号が付される。

 遠回りしてしまったが、識別イマージュが壊れていく時の、「壊れ去りつつあり」の動覚イメージが侘び、識別イマージュが壊れてしまった時の、壊れ去りぬ」の動覚イメージが寂びである。

 ここには、イマージュと識別イマージュの見事な関係がある。

 イマージュは全体として体験されるだけだが、特定の識別イマージュが壊れ去る過程や結果が、イマージュの根への誘いをしている。つまり、「古池や」の時点で、イマージュの根への誘いがある。

 そして、「蛙飛び込む」において、イマージュの根が顔を出し、瞬間が生じる。識別イマージュが壊れ去る様子から、イマージュ全体が震撼し、イマージュの生成が問題になる、イマージュの根へとジャンプする。

 では、「水の音」とは?

 そこから、また、生成されたイマージュが、体験され、識別され、過ぎ去っていくことが、描かれている。俳諧の心地良いイマージュの体験を心に描くなどとぼんやりしていられないのだ。

 つまり、識別イマージュ、イマージュ、イマージュ生成、これら三つが緊密に語られている。架橋しているのは、情緒であり、侘びや寂びだとお分かり頂けているだろうか?

 さて、道元へと繋げていこうか。

 正直、僕は道元を知らない。曹洞宗のことも知らない。だけど、ここで大事なのは禅だ。だから、僕は僕の中にある禅の知識に頼りたい。登場して頂くのは、世界の禅思想家、鈴木大拙(1870-1966)である。

 以下、一応、参考図書を掲載しておくよ。

①『華厳の研究』(鈴木大拙著、鈴木シズ智訳、角川ソフィア文庫、2020年)

②『大乗仏教論』(鈴木大拙著、佐々木閑訳、岩波文庫、2016年)

③『浄土系思想論』(鈴木大拙、岩波文庫、2016年)

④『禅堂生活』(鈴木大拙著、横川顕正訳、岩波文庫、2016年)

 岡潔は禅を通じて俳諧のイマージュ論をひっくり返した。これが、僕の岡潔の思想の理解の仕方だ。俳諧のイマージュ論の情緒が発生する瞬間を深堀りした結果だ。

 禅が俳諧の瞬間を突っ切る。つまり、動覚イメージのみの世界へと没入するのだ。それは、動覚イメージだけを機能させて、他の感覚イメージを遮断することを意味する。

 そうして、他の感覚イメージから切り離されたそれは、より深化した気づきと感嘆を与える。それは、動き自体、時の流れ自体の世界への気づきであり、それが、無の世界(無の流れと無の体)なのだ。

 禅や悟りの過程は分かったかな?

 さて、岡潔のやってのけた転倒は、イマージュという体験の中に瞬間が訪れて、情緒が発生するのではなく、情という、気づきと感嘆に溢れた無の世界において、情緒が発生するのだとした。

 この際、情はイマージュという体験を湧出し続ける根であり、情緒は、逆に、その湧出と威力によって、ある単位を有するイマージュによって、情の中において立ち現れるものにシフトする。

 イマージュ生成の場所に留まり、イマージュは情一色となり、識別イマージュは、情の局所に生じた情の単位となり、どれもが、情緒の現れとなって帰ってくる。

 岡潔は懐かしさと喜びもまた重視した。正直、今の僕には分からない。でも、今の時点での仮説はある。

 懐かしさは、近似や類似の識別イマージュが到来した際に感じる、識別時間の遠のいた識別イマージュの再来への情緒である。ただし、懐かしさの識別イマージュという転倒がメディアでは利用されている。

 懐かしさには、識別時間の遠のいた識別イマージュを思い出そうとさせる効果がある。だけど、人間は懐かしさを消費するために、識別時間の遠のいた識別イマージュを活用する転倒をやるのだ。

 情の次元において、懐かしさは度々到来する。意識は記憶であり、記憶を用いて、意識を構成するのならば、その構成において、構成素になった記憶が懐かしさを打つだろう。

 では、喜びはどうだろうか?

 この際、喜びはイマージュ生成に対する情緒だ。累積された識別イマージュとは似て非なる、独自のイマージュが生成されれば、その新しさに感動する情緒が芽生えると考える。

 この喜びは、出会いの喜びと呼べるもので、さらに、懐かしさもまた出会いに関わる。新たなる出会いと再びの出会いに対応している。

 情の次元において、喜びもまた度々到来する。意識は動きそのものであって、いや、生命そのものもそうなのだが、いつも創発していることを考慮すれば、その意識の創発が喜びを打つのだろう。

 今は、ざっくりとこんな感じ。

 仏教の悟りを得たものの超人ぶりは、どこにあるか?それは、岡潔が説明してくれている。宇宙の中心には仏がいて、世界を生成するための超絶的な数学をしているとね。

 やべぇ、新興宗教の解説みたいになっちった。

 いやいや、僕はすごく真面目だよ。ようやく数学思想を語ることが可能な土壌を手に入れて、嬉しく思っているくらいだ。これから、どのように数学に繋げていくのかね?

 『ぼくと数学の旅に出ようー真理を追い求めた一万年の物語』(ミカエル・ロネー著、山口知子、川口明百美訳、NHK出版、2019年)に助けを求めようか。

 フランスの数学者にして、数学の教育者として有名なロネーの本に頼るなんてね。いや、皆、知らないよね。この本は、マァ、難しい数式や用語を使わず、数学の歴史を易しく学べる書物さ。

 僕が興味を惹かれたエピソードが二つある。

 まずは、数の概念の誕生エピソード。いや、色々、起源があり得るから、一つのエピソードとして興味深いものがあったというだけ。それは、羊飼いと羊のオーナーの話。

 古代メソポタミアには、羊を飼っているオーナーと羊の世話をする羊飼いとがいた。羊飼いは、複数のオーナーが所有する羊を連れ立って、草原を歩いて、街にまた戻ってくる仕事をしている。放牧のためだ。

 さて、問題は何か?

 オーナーにとって、預けた羊が何匹で、ちゃんと全て帰ってきているかが問題だった。また、羊飼いにとっては、ちゃんと預かった羊の数が減っていないことを示せなければならないという問題があった。

 そう、行きと帰りで羊の数が減っていないこと。これが、オーナーと羊飼いにとって、重要だった。その点について、お互いがお互いを信頼できなかったり、騙し合ったりする事態になるからね。

 そこで、中空の容器を作って、その中に、小さな石や木のチップを入れることにした。そうして、羊と小さな石や木のチップを対応付けて、羊の数を数えようとしたんだ。

 中空の容器にしたのは、羊飼いが不在の折に、オーナーが中身を増やす可能性があったから。なので、中空の容器にはお互いの署名さえして、万全を期した。

 しかし、まだ問題があった。

 そもそも複数のオーナーから羊飼いは羊を預かるので、オーナーたちが自分たちが何匹ずつ預けたのか分からない時があった。一契約ずつに容器を作る手間を省くため、一緒の容器を使っていたのだろう。

 そこで、容器の表にそれぞれ何匹羊を預けたか書くようになった。羊の絵を頭数分書いてね。そうしたら、中身の小さな石や木のチップが必要なくなるよね。

 そして、今度は、その表記が、羊の絵を描く手間を省きたくなってくる。そうして、数を数える記号が羊という絵から旅立って、独立した存在になってくる。

 ここにおいて、ようやく抽象概念としての数、そして、その数を表す記号としての数詞が生まれた。抽象概念としての数が生まれるまでには、こうした流れが不可欠だった。

 話を整理しよう。

 まず、対応付けの段階。羊と小さな石や木のチップを対応付けた。この際、羊が目的で、小さな石や木のチップが手段となって、数える行為を実現しているが、両者は未分化で、対応付けそのものに行為が置かれる。

 次に、象徴分化の段階。羊を表す記号が登場し、表すものと表されるものの関係がはっきりする。しかし、数詞は発明されていないし、記号は象形記号の段階であり、具体的な対象を離れていない。

 最後に、抽象記号の段階。記号の象形性が失われ、具体的な対象から記号が自由になり、数詞が発明される。そして、数の概念が抽象概念として成立する。

 イマージュ論の効果を試そうか。

 ある識別イマージュを対応付けて、別の識別イマージュを数え上げる。この際、数える行為を通して、両者は対応付けられ、目的と道具の関係に置かれるが、両者はまだ未分化の状態である。

 対応付けた道具的な識別イマージュからイマージュ性を剥奪する。イマージュの全体性を剥奪し、識別記号に転化させる。道具と目的の関係が明確化し、識別記号が目的的な識別イマージュを象徴する。

 目的的な識別イマージュからイマージュの全体性を剥奪し、識別記号に転化させる。識別記号が識別記号を象徴する関係が連鎖し、数詞や数の抽象概念が成立する。

 ペアノの集合論を使った数の定義に繋がる。

 さて、幾何学の話は置いといて、真打登場と行きましょうか。カントールのめくるめく無限の世界へ。といって、僕の興味の角度は数学思想だ。専門的な話は期待しないでおくれよ。

 超限数ℵ。こいつは、無限の数を表す記号で、しかも、無限には階層があるなんて、とんでもないことを表す記号だ。そして、こいつには、ほとんど常識って奴が通用しない。

 説明が面倒だな。まずは、僕の仮説から唱えようか。

 僕の仮説は数学の無限は運動を表しているのではないかってこと。数の無限を考える時、ある対応付けの段階における、数を生成する運動を扱っている。それは、可算無限の誕生から始まっている。

 可算無限では、自然数も、整数も、有理数も、それらの無限を扱う時、どれもこれも、同じ濃度の数として扱える。その理由は、対応付けの段階が同じ数を生成する運動だからだ。

 結局、先ほど説明した数の誕生エピソードは以上に挙げた三つの数に対応する。問題は、この際、人間が数を生成できたことに焦点がずれてくる。何故なら、無限から有限を生成できる事態が問われているから。

 ごめん、上手く説明できない。

 可算無限の上に、無可算無限があり、もっと大きな無限が続く。その順序は前のℵのべき乗が次のℵといった順序となるという仮説が連続体仮説であり、選択公理の壁によって、否定も、肯定も不可能な仮説と知られる。

 このべき乗による次の段階の生成だけが次の無限の生成方法なのか?この問題は、数の生成の場面を問うている。つまり、対応付けるか、対応付けないかが問われているのである。

 また、選択公理は無限の対応付けを行わなくてはならず、反証も、証明も不可能なのだが、これは、人間が数を生成した場面に関わり、無限の対応付けから有限の対応付けを生み出せる人間が問題になる。

 嗚呼、どうして理系を選ばなかったんだろう。後悔の極み。

 連続体仮説や選択公理と集合論が切り離せるのは、集合の成立過程を論じる超越論と集合の成立以降を論じる理性論が分岐しているから。そして、数学が人間や生命に基礎を置く時、集合の成立が問題になる。

 岡潔が宇宙の中心に数学スーパー超人を置き、宇宙を生成していると唱えた時に着眼していたのは、生命が集合を生み出し、数学を編み出したのだということではないか?

 川本英夫はオートポイエーシス論において、生命が自ら集合を成立させながら誕生し、集合を生成する運動として持続するとした。数学の基礎づけはオートポイエーシス論でどうぞ。

 幾何学の話をしてみようか。

 幾何学は象形性が大事であり、表すものと表されるものの類似性が大事である。ある識別イマージュで別の識別イマージュを対応付けるのは一緒だが、それは、数えるではなく象る行為のためだった。

 ハァ、ロネーの話に頼ろうか。

 古代エジプトの話。古代エジプトでは、天文学に基づく暦を作ったり、建物を作ったり、土地を計測したり、税の徴収や収入の分配を計量したりするのに、数学が使われた。

 古代エジプトでは、ナイル川の氾濫によって、土地の大きさが変わることが度々起きるので、再計測が何度も必要になったし、さらに、川沿いの土地は曲がっていて、計測が困難だった。

 そこで、古代エジプトでは、取り着くし法が編み出された。現代の積分に通ずる所があるのだが、これは、やはり川の曲線に沿わせて、細長い長方形を何本も当てていく方法を取っていた。

 象るって、難しいね。

 数える行為が抽象性に向かったのに対して、つまり、抽象識別記号と抽象識別記号の関係に向かったのに対して、具象識別記号同士の一致と、具象識別記号そのものの探究に向かった。

 運動を導入する際には、識別時間の導入と微分が役に立った。

 僕が扱いたいのはパナッハとタルスキの球の問題。選択公理を許せば、一つの球を二つの球にできたのは、当然だった。不思議ではないと思う。家庭で導入した五つの球がどんな図形的な特徴を持たないのも。

 何故って、選択公理は、要するに、ある対応付けの段階に基づく図形を生成する運動を問題にしている。非ユークリッド幾何学やリーマン幾何学は、具象記号同士の一致の場面を問題にしている。

 つまり、具象記号同士をどのように一致させるか、そして、一致の段階をどのように想定するかが問題なのだ。その一致や一致の段階を問題にすることは、幾何学の成立を問題にすることだ。

 ふぅ、ちょっと疲れたな。

 結論。岡潔やカントールは数学の誕生の場面から数学をしていた。イマージュの世界や情や無限の世界を通って、岡潔は多変数複素関数論、カントールは実無限を切り開いていった。

3.終わりに

 生のアイディアを無理やり取り出そうとした結果がこれである。悲しい限りだが、アイディアを実現しようとした意気だけは自分に認めてあげたい。よく頑張ったで賞。

 僕はベルクソンの『創造的進化』と川本英夫の『オートポイエーシスー第三世代システム』に魅入られた人間だ。

 ベルクソンの生命論と、川本英夫のオートポイエーシス論に基づいて、思想の組み換えを行いたいのが、思想計画。だけど、これらを極めること自体が難しいのに、これらの応用ともなれば、難度が急激に上昇する。

 さて、今回は、生命思想やら、日本思想やらを援用しながら、ゲオルグ・カントールや岡潔、そして、数学思想なる、きっと、手をつけてはいけない分野に手をつけてきた。

 成果は直視できない程ひどく、片腹痛い。

 しかし、数学もまた生命の、人間の技ともなれば、数学がいずれ生命や人間を問題にしなくてはならないのは目に見えているし、だから、数学思想が来るべき数学の道筋を示すのだ、と、僕は思いたい。

 抽象識別記号と具象識別記号。これらが、それぞれ代数学と幾何学に対応していた。僕は、これから、もう少し、この辺りを詰めていきたい。例えば、用語の整理は必須だろう。

 代数学は意識の保持と再帰性に対応している。

 それは、いわば、階層時間であり、識別時間の順序や積み重なりを問題にした場合の相だ。体験時間が永遠の今であり、識別時間が現在、過去、未来の大別しか持たない一方、階層時間は細かなメモリを持つ。

 この際、抽象識別記号は包含関係を取り結んでいる。

 ゲオルグ・カントールは超限数を扱ったが、意識の保持と再帰性、識別時間の順序や積み重なりとしての、階層時間が数であるとすれば、無限が順序や積み重なりを有するのは当然だった。

 幾何学は意識の構造や縮減性に対応している。

 それは、識別空間の一致による解析の問題であり、具象識別記号は識別空間の記号のみを取り出し、それらの、一致や比較を行う。この際、代数学との縁があるのだが。

 マァ、今回はこのくらいにしておくよ。

 用語の混乱、文章の錯乱がまだあるけど、今の僕の力量では、これが、限界だ。ただ、アイディアの格子は見えてきた気がする。数学を学び直さないとなぁ。

 僕はまだ情けなくて、無力だ。だけど、僕の歩みで僕の道を進むよ。誰か僕の助けになる人がいれば、僕はとても嬉しく思う。さて、このアイディアの整理と吉本隆明の交差型に取り組まねば。

 

 


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