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アニメ版『僕の心のヤバイやつ』批評②ー吉本隆明『共同幻想論』編ー

1.はじめに

 早速、批評第二弾。

 やれやれ。暇と退屈は憂鬱の源だ。皆、引きこもりニートとか、フリーターとかやるなら、気をつけて。趣味を持ってないと、死ぬよ?時間の感覚がうねうねになって、焦燥感に身を焦がされるよ?

 よし、無駄話はこれくらいにして、本編。

 前回さ、思春期の躓きを扱ったよね?

 第一話の冒頭シーンと、第十二話の主人公過去編を振り返って。その内容をちょっと整理してみたい。

 思春期ってのは、二次性徴と社会性の発達が肝なのさ。それは、身体も、心も変化してのことなわけで。成長ホルモンがドバドバでまくったり、身体全体がトランスフォームするのは、皆、知っての通り。

 とりわけ二次性徴は、性ホルモンの分泌とか、生殖器の発達とか、性欲の現れとか、恋愛感情の強まりとか、性の意識の芽生えとか、色々、言葉を羅列できるよね。

 この羅列に意味があるのか?さぁ?

 社会性の発達も、脳の発達、とりわけ社会脳と呼ばれる脳領域、神経ネットワークの発達とか、それに伴う、社会意識とか、そして、総合的な、社会的と形容できそうな心の働きとかが、芽生えてくる。

 社会的と形容できそうな心の働き?何それ?

 まぁ、とにかく、思春期ってのは、適当にそういうもんでね。思春期の躓きは、社会性の発達が、特に、その根幹たる社会意識の芽生えが原因。

 その説明をした後、躓きが引き起こした心理的な傷つきが、どういう心理的な動きを引き起こしたり、性の意識やら、性欲やらと、どのように結託したりするのか検討したわけで。

 今回は、二次性徴と社会性の発達がどう位相が違っていて、それらが交差する時、どのような緊張が走るのかについて、書いて行こうと思う。

 上手く語っていくために、吉本隆明『共同幻想論』のキータームを流用しようと思う。厳密な定義をすっとばして、字面とか、言葉の響きとか、そうした面での分かりやすさから、採用したい。

 たまにはこういう本も良いと思うんだよね。本書自体は国家論になってるんだけどね。これは、汎用性の高い本だよ。日本の思想界の巨人、吉本隆明。日本で思想やろうってんなら、この人は外せん。

 扱うのはこの三つのターム。①個人幻想②対幻想③共同幻想。

①個人幻想は、個人の幻想。一人での幻想で、他人の心は関係ない。だから、他人の心を前提とした間主観性とは相入れない。

②対幻想は、一対一の幻想で、恋愛的、性愛的な結びつきを伴う幻想だ。これは、双方向の幻想で、相対する相手の心が前提とされている。

③共同幻想は、三人以上の幻想で、社会意識とそれが生み出す幻想だ。これは、しばしば究極の第三者、人ならざる神として結晶していた。

 第九話「僕は山田が嫌い」と第十一話「僕らは少し似ている」を扱って行こうと思うが、今回は、第九話に絞りたい。

 何故、二つの話を選んだのか?

 それは、僕らがナンパイ(南条ハルヤ)が登場するからだ。市川京太郎(以下、京太郎)と山田杏奈(以下、杏奈)との間に大きな緊張が走る時、そこにはいつも、ナンパイの影がある。
 
2.二人はリバーシブルの裏表

 第九話「僕は山田が嫌い」。

 京太郎と杏奈が図書室で二人きり話をしていると、間宮とその友だちが図書室に入ってくるシーンから。

 二人が入ってくると、京太郎は杏奈からさっと距離をとる。

 間宮は杏奈とのやり取りから、杏奈は京太郎好きなのだと、間宮が気づいて、驚き、友だちを連れて、図書室を出て行く。

 その後、京太郎は人前では自分にあまり近づかないよう杏奈を諭す。そうしていると、間宮がナンパイを連れて、図書室に戻ってくる。

 それに気づいた京太郎は再び杏奈から離れようとするが、杏奈が引き留めて、京太郎に顔を近づけ、京太郎をじっと見つめる。

 間宮とナンパイは二人の関係を「誤解」して、図書室の入口から立ち去っていく。

 このシーン。間宮とその友だち、そして、間宮とナンパイが図書室を訪れる際、京太郎の意識には、共同幻想が強く作用している。つまり、京太郎は杏奈との関係で、第三者の目を強く意識した。

 京太郎は自分と杏奈の間に釣り合いがとれていないとずっと感じている。釣り合いとは、「格」のことで、この場合、性的な魅力度のことだ。

 釣り合いの取れていない自分が杏奈と対幻想にあると「誤解」されれば、杏奈の価値を下げてしまう。そう考えて、第三者が訪れた際に、京太郎は杏奈から距離をとろうとするのだ。

 何故、杏奈の価値を下げることに繋がるのか?

 付き合っている相手の性的な魅力度が低いと、その本人も、その程度の性的な魅力度しか、本当は持たないのでは、という、イメージの問題だ。

 実際、間宮が杏奈の気持ちに気づいて、驚いたのは、この釣り合いの取れなさからだったろう。

 あり得ない、と。

 同じ話の別のシーンでも、それは、関根萌子(以下、萌子)の口から確認されている。「レベル九十九で真っ先にスライム倒しに行く奴があるかーい!」だったか。

 この釣り合いの取れなさの問題は、対幻想に共同幻想が浸蝕してきた結果として生まれる問題だ。そう整理すると、綺麗に分かるよ。

 でも、このシーン。杏奈から見ると、全く別の見え方になる。

 ここで、杏奈の意識には、京太郎とは逆に、対幻想を強烈に作用している。共同幻想をノックアウトして、対幻想を守ろうとしている。

 杏奈は京太郎との対幻想を引き裂く第三者、京太郎の中の共同幻想を打ち消そうとしていた。

 つまり、共同幻想が対幻想に浸蝕するのを堰き止めようとした。

 間宮とその友だちと会話していた際の「彼氏いない」発言も、ひょっとすると、自分の性的な魅力度の、杏奈個人の「格」の棄損になる場合もあるのに、はっきり言って見せていた。

 また、間宮とナンパイが来た時に、遠ざかろうとする京太郎を引き寄せたのも、京太郎に「私だけを見て!」と伝えるため。それと、他の第三者に「邪魔しないで!」とアピールするため。

 感覚的に、京太郎が人前で自分から遠ざかろうとする理由を察知し、自分と京太郎との対幻想を守るために、パッと行動を起こしたのだろう。

 杏奈の感覚的な鋭さには脱帽するしかない。

 でも、これが、分岐点になってしまう。

 ナンパイが小林ちひろ(以下、ちひろ)を利用して、杏奈を家に呼び出そうとしていたことから、杏奈も自分を利用して、ナンパイを遠ざけようとしていたのではないか。

 京太郎はそう考えてしまう。

 京太郎と杏奈の中で、目的と手段が逆になっている所がポイントだ。一作家として、素晴らしい誤解、すれ違いの作り方だと思う。

 目的と手段が逆になってしまう理由。それも、京太郎と杏奈の中で、共同幻想が強く作用しているか、対幻想が強く作用しているかが、深く関係している。

 でも、本当に、心が痛んだなぁ、このシーン。

 それで、京太郎は杏奈を避け始める。だけど、それは、すぐに終わる。ある日の放課後。杏奈が耐えきれず、帰宅していく京太郎を引きよせて、止め、その行動の理由を問い質す。

「怒ってるの?私が近いから?」
「いや、違う」
 京太郎は否定して、帰ろとするが、
「ごめんね」
 と、杏奈は泣いてしまう。

 京太郎はようやく自分が勘違いをしていたことに気づき、その理由にも気づく。構成の妙で、昔、スミッチが欲しかったけど、欲しくないと突っぱねた理由と、重ねられている。

 すっぱいぶどうをご存じだろうか?

 木の高い所に美味しそうなぶどうがなっている。手にして、食べてみたけど、どうやっても手が届かない。だから、あれは、すっぱいぶどうだったのだと思い込んで、欲しがること自体が間違いだったことにして、欲しいものが手に入らない痛みを緩和する。

 京太郎にとって、杏奈はすっぱいぶどうだったのだ。

 好きで仕方ないし、関わる度に、好きになってしまう。だけど、杏奈とは可能性がないとも思っていて、だから、傷つく前に、観念上で杏奈の価値を棄損したかったのだ。

 京太郎は自分の間違いに気づき、杏奈を遠ざけてたわけではないことを諭す。すると、杏奈は京太郎に抱き着いて、京太郎はそれを受け入れる。

 京太郎は共同幻想の浸蝕を退け、対幻想に復帰する。

 杏奈サイドで見ると、これまた面白い。

「怒ってるの?私が近いから?」

 この問いの意味は?

 「あなたに私への気がないから、周りに関係を『誤解』されるのが嫌なの?」が可能性としてある。これかなぁ。

 この話では、杏奈はもうすでに京太郎との間を対幻想で生きている。この発言は、「周り」という第三者を含んでいるが、京太郎のそれとは、また別の作用が生じている。

 これは、対幻想の証人としての第三者。成立や存立を脅かす浸蝕型の第三者ではなく、その成立や存立を判定する証人型の第三者だ。

 こう考えると、この話では、京太郎と杏奈は最後の仲直りまでリバーシブルの表と裏だ。だけど、最後に愛は勝つのさ。

 この話の最後、Line交換をするのだが、実はLine交換の時点で、リバーシブルの表と裏は始まっている。

 作者、神かよ。

 そして、交換で終わるまでの構成の妙は言うまでもなく、深層での、表と裏の解消があった後のそれは、もう脳の癒し。脳からよだれが出ちゃったよ、マジで。

3.終わりに

 さて、今回は、吉本隆明『共同幻想論』の三つのタームを利用しつつ、二次性徴と社会性の発達がどう位相が違っていて、それらが交差する時、どのような緊張が走るのかについて、書いてきた。

 いやぁ、作者、神。

 僕は小説も書いているけど、このレベルの作品を作れるようになるまで、何年かかるんだろうね。ちょっと泣けてきた。

 作品全体を通して、京太郎の対幻想は共同幻想からの浸蝕を受け続けている。それが、作品に緊張感を持たせ、作品を面白くしている。逆に、杏奈は共同幻想にちょっと無頓着だ。

 でも、対幻想の文法を感覚的に理解している。

 二人だけの世界、二人だけの関係。それへのこだわりは、「付き合っても、それを内緒にしていたい」と、口にしていたことからも分かる。

 ちょっと補足として、個人幻想について少し語らせてもらおう。

 個人幻想。『僕の心のヤバイ奴』では、第一話の冒頭シーンが当てはまる。頭の中で、杏奈を殺し、その美を、永遠に自分のものにする。そんな妄想をするシーン。

 あれは、一人での妄想であり、一人の世界での美と快楽の追求であって、誰かの心のあり方が前提とされていない。

 ただ、そういう個人幻想に向かった背景には、共同幻想がある。共同幻想での自己愛の傷つきを、個人幻想で補う。自己愛の延長であり、そのための「永遠の所有」なのだ。

 吉本隆明は方々で非接触の恋愛を取り上げている。接触しない恋愛。1対(1)の恋愛。妄想の中の相手に恋し、恋に恋をして、自己愛を満足させる恋愛だ。

 吉本隆明は周辺の女性が非接触の恋愛を差し向けてきた実体験を語っている。手紙でのやり取りはするのに、直接会ってくれない。

 かの文豪、フランツ・カフカもその手合いだと界隈では有名だ。

 最後に。

 恋愛で共同幻想に浸蝕されまくりの人たちは沢山いる。僕もその一人だったし、バックファイアとして、非接触の恋愛に走ってしまった。

 でもね、すごく後悔しているんだ。

 対幻想での傷つきならまだしも、それに至らずに、浸蝕してきた共同幻想に傷つき、怯えて、対幻想から逃げてしまうなんて勿体ない。皆、真っ直ぐに傷つきに行こうな。

 約束だ。

 僕も気になっている女の子を遊びに誘うくらいの勇気を出したいと思う。それで、失敗しても、死ぬわけじゃないしね。それを馬鹿にする奴は、対幻想を分かってない。

 それも、次の批評で書くよ。アデュー。

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