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オッペンハイマー観てきたので感想とか色々

こんばんわ☕
せいたろうです

昨年の夏にアメリカで公開されて話題となったクリストファー・ノーラン監督作品「オッペンハイマー」がついに日本でも公開されました。
クリストファー・ノーラン監督の作品は「ダークナイト」くらいしか見た事ないんですが、オッペンハイマー博士に興味があったので楽しみにしていた作品です。

オッペンハイマーが物理学者として「ブラックホール研究」の分野から「マンハッタン計画」に至る話と、ルイス・ストローズとの対立の話の二つが行ったり来たりするので、集中力がいるなあと感じました。
興味があっていろいろ調べてたのでついていけましたが、知識がないとかなり置いてかれてたかも。

オッペンハイマー博士がロスアラモスで原爆の実験をしてるとき、民間人を大勢殺すことになる兵器を持つことを同僚の1人が懸念しているシーンがありました。
オッペンハイマーは「ナチが持つよりはいい」というようなことを言っていたと思います。モノを作っているときはこの大義名分があったからこそ迷いなく作り続けられたんだろうなと思いました。

トリニティ実験の場面の映像体験はすごかったです。
静まり返ったとき、いつ爆音が襲ってくるかビビッてずっと拳を握りしめ続けてました。
そしてかの有名な「我は死神なり、世界の破壊者なり」と呟いた瞬間に爆音が轟き、僕は思いっきり飛び跳ねました。両隣に人がいなくて良かったです。後ろで見てた人すみませんでした。

オッペンハイマーが大統領に直接会って話す場面がありました。そのときオッペンハイマーは「原爆を作った自分は落とされた国の人たちに嫌われる」というような弱腰なことを言ってました。
そのときに大統領が「落とさせたのは私だ。おまえが気にすることはない」と言い切ったのが、なんというかキモのデカさに震えたし、大物だなあと思いました。

映画見ながら頭に浮かんでたもの

天才で、神経質で、家庭をおろそかにする感じ、どっかで見たなあと思ってたんですが、思い浮かんだのは「風立ちぬ」の堀越二郎でした。
彼も、やってることは戦闘機という兵器開発なんですけど、本人は航空機オタクそのもので、航空力学に基づいた美しい曲線でできた航空機を作ることに心血を注いでいた人物でした。
堀越二郎が作り上げた「零式艦上戦闘機」は1941年12月8日に真珠湾を攻撃しました。

僕自身、戦争はいけないものと理解していますが、刀剣や甲冑、軍艦や軍用機などに惹かれてしまいます。この二つの矛盾した感情とずっと向き合って生きてきました。
兵器が好きな僕は悪人なのかもしれませんが、悪人であっても自分の事を嫌いになる必要は無いのかなとも思ってます。
できるだけ善人でありたいし、善人になれる努力はしたいと思ってます。でもこのアイデンティティをなくすと僕ではなくなるので。

子供の時の原爆学習の記憶

僕は長崎県出身なんですが、学生の時は毎年8月に原爆の学習を学校の行事として受けてきました。その時の話をすこしさせてください。

僕たちは小学校に入学してから毎年必ず原爆の学習をしてきました。夏休み真っただ中の8月9日は登校日で、11時2分に全校生徒で黙とうをします。
その後は夏休みの宿題の前半分を提出し、後半分の宿題が追加で課されたり課されなかったりします。

小学校の高学年の時は体育館に集まって被爆者の写真などを見たりして原爆の恐ろしさを学び、午後に下校します。
かなりショッキングな写真ばかりなので気分を悪くする生徒もいて、多くの生徒にトラウマを植え付けたと思います。

長崎市にある原爆資料館にも何度も行きました。
小学生のとき学校行事で初めて行ったときはよく覚えていて、午前に原爆資料館を訪れて、そのあとお弁当を食べたと思います。
資料館から出た生徒たちはみんな気が沈んでおり、弁当が喉を通りませんでした。しかも黒焦げになった弁当とか見た後だし。

でもあの体験は大事なことだったと思います。
子供だからと言って見せないんじゃなく、ちゃんと何があったかを学ぶことで大人になっても忘れない記憶として残り続けています。

母方の祖母と原爆の話

もう亡くなってしまいましたが、母方の祖父母は佐世保市に住んでいました。太平洋戦争中はまだ祖父母は出会ってませんが、二人とも当時も佐世保に住んでました。
祖母は佐世保市内の銀行に就職し、窓口業務を担当していたそうです。

長崎に原爆が落ちた時、離れた距離にある佐世保はいつも通りの日常が流れていました。

数日後、長崎で被爆された方が祖母が働く銀行にいらっしゃったそうです。どちらにお住まいかはわかりませんが、とにかく佐世保の銀行に預けていたお金を引き落としに電車に乗って来られたそうです。
その方は皮膚がただれていたそうです。祖母はしっかり目視できなかったそうですが、お札を手渡しした時に膿と血でお札が汚れてしまったんだそうです。
祖母はまだそのとき10代でした。祖母は恐怖で震えが止まらなかったそうです。その方に何が起きたのかまだ知る余地もなかったと思います。

祖母が目を合わせられなかったのは決して悪意あっての事ではなかったと思いますが、多くの被爆者がそういう目に遭われたと思うと心が痛いです。

父方の祖母と原爆の話

父方の祖母は、大村市に住んでいました。
太平洋戦争中は尋常小学校に通っていて、授業はほとんど受けさせてもらえず竹槍の稽古ばかりさせられたそうです。でも祖母にとっては青春の1ページであり、辛いばかりの記憶ではないそうです。「比島決戦の歌」を聞くと、学校の帰り道を思い出すんだそうです。
今でもたまに祖母が畑の草むしりをしながら突然「いざ来いニミッツ マッカーサー 出てくりゃ地獄へ逆落とし」と楽しそうに歌い始めるのでこっちも可笑しくなって吹き出してしまいます。(内容が結構物騒なんで)
作曲が「六甲おろし」などで有名な古関裕而さんで、たしかに曲調はすごく心地いんです…。

長崎に原爆が落ちた時は、祖母は教室で授業を受けていたそうです。当時小学五年生でした。
朝、突然西側の窓のほうが光ったんだそうです。子供たちは興味津々で一斉に窓に駆け寄り、先生もいっしょに窓の外を見てたそうです。
光った方角には大村湾があり、大村湾の奥に長崎市があります。
何だったんだろうと話していると長崎の方に小さなきのこ雲が見えたそうです。
直線距離で17kmほど離れている大村でもきのこ雲が目視で確認できたという事は相当な大きさだったんだと思います。

祖母はコロナに入って僕たちと会えない事が多くなると、「戦争の時より今がよっぽど辛い」と言っていました。そんなことないでしょうと思ったんですが、戦時中は友達もいたし人に会えたけど今は人と会えないのが辛いんだと言っていました。
「戦争より辛い」なんてことがあると思ってなかったので驚きましたし、戦争について多面的に見れてなかったなあと思いました。


祖父たちは原爆と関係がある話はあまりないのですが、祖父と戦争の話についてもちょっと書いておきたいと思います。

父方の祖父と戦争の話

父方の祖父は農家の倅として逞しく育ったので、成人するとすぐ赤紙が来て、戦場に少し出てたようです。

祖父の戦争中のエピソードとしては川で洗濯をしているときに敵の戦闘機に狙われて銃撃されたというのを聞いたことがあります。運よく祖父に怪我はありませんでしたが、その時は腰が抜けて動けなかったそうです。

祖父は無口であまり話はしたことありませんでしたが、戦争についてのドキュメンタリーなどはよく見ていたのを覚えています。

僕が高校生の時、歴史の授業で太平洋戦争のところをやって、夕食のときに僕が近衛文麿のこと嫌いかもというようなことを言った時、食い気味に「近衛文麿が一番悪い」と言い放ったのを鮮明に覚えています。
やはり、戦争を経験し、敵機の銃撃を受け、それで生きて帰ってきた祖父には近衛文麿の生き方は許せないものがあったのかもしれません。

母方の祖父と戦争の話

母方の祖父は佐世保海軍工廠で働いていました。戦時中は佐世保に入渠した軍艦(主に潜水艦)の修理を行っていたそうです。
祖父は兵隊として戦地で働くことを強く志望していたそうですが、体が弱くなかなか検査に合格できなかったそうです。
1945年、祖父が20歳の時にやっと入隊できたそうですが、新潟で訓練を行っているときに戦争が終わったそうで、1週間で帰ってきたそうです。

母方の祖父はよく戦争の話をしてました。
戦中、友達とは別れ際に「靖国神社の桜の木の下でまた会おう」と必ず挨拶していたとよく言っていました。母はすごく嫌な顔してました。
本当に命が軽い時代だったんだなと思います。それでも93歳まで長生きしました。

小さいころ母方の祖父に「日本とアメリカ、どっちが悪い?」と聞いたことがあります。今思えば何て答えづらいこと聞いてんだと思います。
祖父の答えは「日本」でした。
祖父は「日本に原爆は落とされたばってん、それでアメリカが悪いと決めたらいかん。最初に真珠湾に攻撃を仕掛けたとはそもそも日本。」と僕に伝えました。
僕は戦争経験者である祖父がそういうんだからそうなんだろうという事にしてます。

最後に

ザ・ブルーハーツの1985という曲の中のフレーズを紹介したいと思います。

僕達がまだ生まれてなかった
40年前戦争に負けた
そしてこの島は歴史に残った
放射能に汚染された島

1985 ザ・ブルーハーツ

お気づきでしょうか。この歌が歌われたのが1985年のことです。
来年、この曲が歌われてから40年が経ちます。
「40年前戦争に負けた」年から40年が経とうとしています。
40年前僕は生まれてないのでこのときの甲本ヒロトと同じです。

ここからまたさらに40年経った後でも戦争の事とザ・ブルーハーツのことは語り継いでいきたいものです。

最後とか言っといてあれですが、映画「太陽の子」はオッペンハイマー観た人にオススメなので公式サイト貼っておきます。アマプラで配信してます。興味ある人は是非。
日本の原爆開発者の話です。あの時代いろんな国が原爆開発してたことは覚えておきたいです。

ではまた。


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