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地理Bな人々(30) SHIZUKU② 高卒認定試験・ブルーストーン

月曜日,オッキアーリに行くと,タオが駆け寄ってきて,ねえまたお姉ちゃんのところへ行こう,と少し慌てた様子で言った。

うん? 
この前行ったばかりじゃ・・・,と言おうとすると,

「滴ちゃん,高校を中退することにしたらしいの。」
と真弓さんが奥から現れた。
「お母さんからさっき連絡があって,治療に専念するって。高校中退でも,試験を受ければ大学受験はできるから,慌てずゆっくりいきましょう,という方針になったみたいなの。」
「そうですか・・・。」
「お姉ちゃん,どうなっちゃうの。大丈夫なの?」

 事情がよく飲み込めていないタオを連れ,僕達は3人で先週訪れたばかりの病室へ向かった。
 滴ちゃんは白地にピンクのチェックの入ったパジャマ姿でクロスワードの続きをしていた。
 ベッド脇には高卒認定試験※1の概要の書かれた薄い冊子が置いてあり,母親の奈緒子さんがベッド脇に座っていた。

 タオといつもより長くハグを交わしたあと,滴ちゃんはくるりと振り返り「先生,タテのカギ教えて下さい」と言った。
「6文字全部空欄なの。」
 こちらに余計な心配を掛けないようにと,無理して振る舞っているのがすぐに分かった。
 自分がどこにも所属していない状態というのはもちろん初めての経験で,今彼女は補助輪を外して初めて自転車をこぐ時みたいな気分になっているに違いなかった。
 タオはそれに気付いているのかは分からなかったが,安心したように微笑んでから問題を読み上げた。
「『統計上の数値に比例して面積や距離を拡大・縮小して表現した地図』だって。全然わかんないよ。」
「ああ,カルトグラム※2だね。それは。」
「へえ。そんな名前があるんだ。」
 先の丸くなった鉛筆で彼女は丁寧にマス目を埋めた。
「カルトグラムだったら高卒認定テストで出るかもしれないよ。」と僕は少し意地悪く言った。
「ええ,そうなんだ。あー勉強しなくちゃ。」
と,滴ちゃんは困ったように一瞬微笑んだが,目のつやつやとした輝きは明らかに先週より減退していた。 

 奈緒子さんと真弓さんが談話室へ向かい,ベッドの周りに一瞬沈黙の時間が流れた。
 しんとした空気が彼女の顔色をますます生気のないものにしてしまいそうな気がした僕は,とりあえずリュックから地図帳を取り出して中部地方の地図を開いた。
「ナオミ,いっつもそれ持ってるよねー。」と呆れたようにタオが言う。「滴ちゃんは名古屋に行ったことはある?」と僕は尋ねた。
「いいえ。」
「まあ,別に名古屋じゃなくてもどこでも良いんだけれど。」
と言いながら,ペンを取り出しミニ講義を始めた。

 ――東京から名古屋までは約350km。
ほとんどの人は東京から新幹線に乗って名古屋まで行く。
「のぞみ」に乗れば1時間40分で到着。
でも,時間は余計に掛かるけど行く方法は他にもたくさんある。
例えば自動車。
東名高速道路※3を時速80kmで走り続ければ,約4時間。
JRでうんと遠回りして松本や長野を経由していくこともできるし,日本海を見ながら行くことだってできる。
羽田から中部国際空港※4へ飛行機で移動して,名鉄に乗って名古屋駅まで行くというルートもある(これは新幹線より時間もお金も掛かってしまう)。
さらには,バスで行くこともできる。
夜行便だけじゃなくて昼間運行されるバスもある。
直行便以外にも,新宿―松本,松本―名古屋みたいに乗り継いでいくこともできる。

「でもバスだと時間が掛かっちゃうよ。」とタオが言う。
「いいんだよ,時間が掛かっても。実際のところ,そんなに慌てて移動しなくても大丈夫な人って世の中にたくさんいると思うんだよ。僕も高校時代に,青春18きっぷ※5であちこち移動したけれど,各駅停車って,ゆっくり本を読んだりしていればそんなに退屈しないもんだよ。景色ものんびり眺められるしね。新幹線からは見ることのできない景色をゆっくり食べることができる。」
「え? 食べるの?」
「そう,食べるの。」
「食べられないよ,景色は。景色は見るものだよ。」
「タオちゃん,ナオミ先生は例え話をしてるんだよ。」
「滴ちゃん,違うよ。ホントに食べるんだよ。」
「え?」
「高校時代に僕が考えた裏ワザなんだ。自転車に乗ってる時に,ああ,良い景色だなあ,と思ったら口を大きく開けて,風といっしょに山や雲をまるごと食べちゃうんだ。」
「こうやって?」
タオが変顔をしながら大袈裟に口を大きく開けて天井を向いた。
滴ちゃんが吹き出した。
「やっぱり食べられないよー。」
「天井は食べられないさ。この部屋じゃダメだよ。もっと自然がいっぱいあるところがいいね。そういう所に行って大きく吸い込めば食べられるよ,ちょっとずつだけどね。」

僕はタオの正面に立ち,二人で向かい合って胸を開いたり閉じたりしながら大きく息を吸った。
「新幹線だと窓ガラスが邪魔して景色を食べられないけど,各駅停車の窓が開いていれば景色を食べることができるんだ。」
「ナオミは食べたことあるの?」
「もちろん。瀬戸内海の島はほとんど食べちゃったんじゃないかなあ。」  
 タオはケラケラと笑い,
「変なの。ナオミってやっぱり変だよ。でも,それが名古屋と何の関係があるの?」と言った。
「ごめん,話がそれちゃったね。つまり,こういうこと。滴ちゃんは今東京駅にいて,新幹線の切符を払い戻ししたってことなんだよ。旅のルートを変えただけなんだ。みんなよりちょっと遅れて名古屋に到着するかもしれないけれど,街は変わらないよ。名古屋は名古屋のままだよ。安心して鈍行列車に乗ればいいんだよ。」
 
 果たして咄嗟に思いついたそんなたとえ話が彼女の気持ちを解すのに成功したのかは分からない。
それでも,地図帳に視線を落としていた滴ちゃんは,小さく何度か頷いて,「うん。ありがとう,先生。わたし頑張る。」と言った。
タオが両手でトントンと滴ちゃんの手のひらを叩いた。
「私,お姉ちゃんと一緒にバスでどこかへ行きたい。」

 その日,真弓さんや奈緒子さんと話し合った結果,これからは無理のない範囲で高卒認定試験合格を目標にして計画を立てようということになった。体調と相談しながら,1教科づつ認定を取るようにして,体調が良くなって退院したらまたオッキアーリに通えばいい,と。

「滴ちゃんはもともと優秀だから,そんなに深刻に考えなくても大丈夫よ。高卒認定テストは中学から高校1年生くらいのレベルのテストだから。しかも,合格するだけなら4割くらいとれれば良いの。滴ちゃんなら楽勝だと思うわ。オッキアーリにも高校中退した子が何人か通っているわ。」と真弓さんが言った。

僕は,4月から週1回彼女の数学と社会の面倒をみることになった。
高校時代一番得意な科目が数学だったからだ。
社会科は,地理以外はまるで成績は芳しくなかったけれど,日本史や世界史も任せて下さい,と思わず言ってしまった。
自ら困難なミッションを新たに課すことになってしまったけれど,これでタオの付き添いという名目は不要となり,僕は晴れて合法的に滴ちゃんと会えることになった。彼女の高校中退は僕にとっては幸運を呼ぶ出来事だった。

中島先生のイスタンブール旅ノートが面白かったらしく,彼女は次のノートが読みたい,と言った。

「私,小さいころイタリアに住んでいたことがあって,家族旅行でイスタンブールにも行ったはずなんですけど,そんな橋が架かっているなんて全然知らなかったです。見てみたかったなあ。アジアとヨーロッパを結ぶなんて何かいいなあ。」

 彼女がイスタンブールについて覚えているのは,ものすごく高い天井(たぶんブルーモスクアヤソフィア※6だろう)があったことと,広場の真ん中で食べたアイスクリームが美味しかったことくらいだという。

「あの頃はただ親について行くだけで,自分が世界のどこを歩いているかなんて全く想像したことがなかったんです。もったいなかったなあ。今は地図帳を見るのが楽しくて,ベッドの上で毎日好きな国を旅行してるんです。今日はヨーロッパ,明日はオーストラリアって。もう世界50ヵ国くらい旅しちゃった。退院して体力が戻ったら,いつか自分一人で旅してみたい,そして青い石を見つけに行きたいんです。」
「青い石?」
彼女は引き出しから小袋を取り出した。
その中にはいくつかに砕けてしまった青い石のカケラが入っていた。 

それは彼女がトルコ旅行で手に入れたもので,有名なグランバザール※7の雑貨屋で購入したものだという。彼女はラクダの皮で作った小袋に入れ,ずっとお守りがわりに持っていた。それは幼少期の彼女にとって“世界遺産”に違いなかった。でも,なぜか日本に帰国したあと開けてみたら割れてしまっていたのだ。
「だから今度は,もっと深くて濃い青で,しっかり大きな新しい石を見つけたいんです。」と彼女は言った。

 僕は2冊目のノートを彼女に渡した。今度はオランダ編だ。
「ちょっと滴ちゃんには刺激が強いかもしれないけどね。」
「どういうことですか?」
「まあ,読んでみれば分かると思うよ。」  
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※1 高卒認定試験
かつては「大学入学資格検定制度(大検)」という名称だったが,就職や資格所得においても活用できるようにと改称された。16歳以上で高校を卒業していない人ならだれでも受験が可能。年2回実施され(8月,11月),英数国は必修,地歴公民、理科は選択制で計8科目合格する必要がある。1度の試験で全ての科目を受験しなければいけないわけではなく,1科目ずつ受験することも可能。

※2 カルトグラム
例として,世界地図を,国別人口に合わせて変形させた地図などがある。人口14億を超える中国・インドはとびきり面積が大きくなり,面積の割に人口の多い日本も実際の世界地図よりも大きめに表現される。逆に,オーストラリア(人口2500万人)やカナダ(人口3800万人)は面積の割に人口が少ないので実際の地図よりも小さく表現される。この他,東京からの所要時間を元に日本地図を変形した時間距離の図など,さまざまな統計を視覚的に表現する時に多く用いられている。

※3 東名高速道路
1969年全線開通(東京IC~小牧IC/IC=インターチェンジ)。高度経済成長期(1955~1973年)のみならず,現代においても日本の物流を支える大動脈である。東京―小牧の直線距離は248kmだが,途中に赤石山脈(南アルプス)があるために,南の太平洋側へ大きく迂回し実際の距離は100kmほど長くなっている。交通量の増加に対応するために,2012年,ほぼ平行するように第2東名高速道路(御殿場JCT~三ヶ日JCT/JCT=ジャンクション)が開通した。2027年の海老名ー豊田の全線開通を目指して工事が進捗中である。子供の頃「透明」高速道路と勘違いしたことのある日本人は意外に多い。ちなみに日本で最初に開通した高速道路は名神高速道路で1963年である。

※4 中部国際空港
愛知県常滑市,知多半島の西の伊勢湾に浮かぶ人口島に建設された国際空港。2005年開港。「セントレア」の愛称を持つ。国内便だけでなく海外30以上の都市(中国・韓国・東南アジア路線が中心/ヨーロッパはフィンランドのヘルシンキ)と結ばれている。2019年,成田国際・関西国際に次いで,LCC(格安航空海会社)向けのターミナルが完成。 

※5 青春18きっぷ
JRが毎年3回(春・夏・冬)発売している期間限定きっぷ。JR全線の普通列車のみ使用できる1日乗り放題きっぷ。5枚(回分)綴り。1982年の発売開始当初は8000円であったが,現在は12050円。お金は無いけど時間はたっぷりあるという学生達の強い味方。18歳でなくても利用できる。 

※6 ブルーモスクアヤソフィア
ブルーモスク(スルタン・アフメト・モスク)は1609年から7年の歳月をかけて作られ,「世界で最も美しいモスク」と呼ばれる。直径27.5mの大ドームと6本のミナレットを持つ。白地に青の装飾が特徴的。アヤソフィアは,もともと東ローマ帝国時代に建設されたキリスト教正教会の大聖堂であったが,オスマン帝国(1299~1922)の支配下でモスクとして改修され現在に至る。ともに世界遺産『イスタンブールの歴史地区(1985年登録)』の構成資産の1つ。常時,世界中から観光客が押し寄せごったがえしている。

※7 グランバザール 
イスタンブールにあるオスマン帝国時代から続くトルコ最大の室内市場。「バザール」とは本来イラン(ペルシャ語)文化圏における「市場」を意味し,アラビア語では「スーク」と呼ばれる。トルコはトルコ語(アルタイ系)であり,室内市場はカパルチャルシュと呼ばれるが,グランバザールの名称が一般的となっている。土産物や日用品を扱うショップ,カフェ,工房などが7000店以上も密集しており,徐々に拡大を続けた結果,道が迷路状に入り組んでいる。世界中から観光客が集まり日本語を話す店員も多い。値段交渉は必須。 

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