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夫の雛祭り【短編小説】

朝陽がさす頃、ベッドの脇に気配を感じて寝返りを打った。
夫が誰かにささやいている。
「ほら謝っておいで」

お腹の上に乗ってきたのは我が家の愛犬だ。
「おはようハーマイオニー」
なでてやると口に咥えた物を頬に押し付けてくる。
ゴロンと目の前に転がってきたのは雛人形の首だった。
至近距離で人形と目が合って「ひッ」と変な声が出てしまった。
ホラー映画さながらの目覚めである。

「叱らないでやってくれよ」
夫はか細い声を出した。
雛祭りまであと十日あまり。
桐箱から出しかけたまま、うっかり置きっ放しにしたのが間違いだった。
大切にしてきた雛人形は頭部のみならず腕やら脚やらもなくなって見る影もない。
引き剥がされたかつら、ズタズタの着物、烏帽子や扇子が散らばったリビングは完全にR指定状態だ。

「もうあきらめるわ」
私はため息をついたが不思議と怒りは湧いてこなかった。
夫はその言葉に激しく反応した。
「だめだよ日菜乃さん!新しいのを買おう」
「いいのよ。もうやめ時かなと思ってたんだもの」
本心なのだが夫は納得しなかった。
「毎年楽しみにしていたのにこんなことでやめなくていい」

「でもね、雛人形って高いし、しまう場所もとるし。今さら買わなくても」
「だったら作ろう。いや、僕が作る」
夫の宣言には面食らったが、その素っ頓狂な申し出に好奇心がくすぐられる。
「じゃあ、なるべくお金をかけないで、雛祭りが終わったら気軽に処分できる物で作ってね」

ところが私の出した条件をよく聞いていなかったのか、粘土細工や本格的な木彫りの道具をそろえようとしている。
「お父さん、そんなに凝って作ったら処分できなくなるじゃん」
息子に止められて、夫は途方に暮れていた。

その後、床の上にマスキングテープが妙な形に貼られているのを発見した。
雛人形が落ちていた場所だ。
これはいわゆる、殺人現場で警察が遺体の周りを線で囲むアレに違いない。
息子が面白半分にやったのだろうか。
こんな悪ふざけをする子ではなかったのに。
高校生になってから謎めいてきた。

私は子供時代、雛人形を買ってもらえる家庭環境ではなかった。
雛祭りになると日菜乃という自分の名前がうらめしく感じられた。
息子の晶にはわからない。
わからなくてもいいことである。

マスキングテープを剥がし、ゴミ箱に捨てようとして気が付いた。
雛人形の髪の毛と夫のシャツのボタンがからまってテープにくっついているのだ。
ちらりと振り返ると夫はスマホで一心不乱に雛人形の作り方を検索していた。

数日後、リビングに飾られた物を見て私は小さく拍手した。
その雛人形は春らしい色柄のタオルを折り畳んで作られていて、かなり歪んでいるものの遠目にはそこそこ可愛らしい。
ゆで卵に色鉛筆で描いた顔が乗っかっている。
夫が可愛い顔を描けるとは意外だった。

「タオルはどこも縫ってないから普通に使えるし、卵は食べられるし、サステンナボーだろう?」
夫は歯科医である。
今まで他のスタッフとあまり交流がなかったが、思い切って相談したら歯科衛生士さんが教えてくれたのだそうだ。
「最近は周りが年下ばかりになって敬遠されてる気がして居心地が悪かったんだけど、この話をしたら急に打ち解けたんだよ」
ツッコミどころの多い人間ほど愛されるものなのだ。

夫は鼻歌混じりで出勤していった。
「卵をゆでたのは僕だよ」
晶は自分にも手柄があると言いたげだ。
私が機嫌良くしていると、さらにこう尋ねた。
「ねえお母さん。うちに女の子はいないのにどうして雛人形があるの?」

晶が産まれる以前、私は流産した。
妊娠がわかった直後にデパートを歩いていて雛人形を見かけ、女の子だったらこれを飾れるかもしれないと思ってうっとりと眺めたものだ。
しかし女の子を授かることはなかった。

「それから2年経ってあなたが産まれてすっかり忘れていたのよ。でも次にデパートに行ったら同じ雛人形があってね。どうしても欲しくなっちゃったの」
「産まれなかった赤ちゃんのため?」
そう尋ねた晶が驚くほど大人びた顔をしていたのでハッとする。
この質問をこれまでにしなかった晶の慎重さに今さら感心した。

「違うの。赤ちゃんができたとわかった日、将来これを一緒に飾ろうとか、桃の花を生けたいなとか、きれいな色のひなあられを食べようとか、妄想がパァーっと広がってとっても幸せだったのよ」

雛祭りの日に悲しい気持ちになるのはおしまいにしよう。
楽しさを思い出す日にしよう。
そう決心してデパートから雛人形を抱いて帰った。
「だから誰かのためじゃないの。私のためなのよ」

晶はゆっくりと私の言葉を飲み込むようにうなずいた。
そして卵の額を指で弾く。
「ところでお母さん。人形を壊したのはハーマイオニーじゃないよ」
「わかってるわ。昌弘くんが壊したんでしょ」

「わざとじゃないんだ。お父さん、人形がボタンにからまって、引っ張ったらボタンごと飛んでいっちゃったんだ。」
犬は投げられた物を追いかけるのが大好きだ。
拾った物を咥えて走り回るのも。
それからどうなったかは推して知るべし。
「お父さんを叱らないであげてよ」
息子はにこにこしてそんなことを言う。

夫のシャツを広げてボタンがないところを探す。
胸の真ん中、三番目のボタンが消えていた。
そういえば雛人形を買ってきたあの日、夫はなぜなのかと一言も尋ねなかった。

彼は雛人形を抱きしめたのだろうか。
それともただ犬に取られまいと抱えたのだろうか。
「まあ、どっちでもいいか」
私は拾ったボタンをしっかりと縫い付けた。











































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