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地獄からのシャケ弁【エッセイ】

昔とある遊園地でバイトしていたときのことです。
メルヘントレイン(仮名)という乗り物がありました。
その遊園地で最古の乗り物だと言われるだけあってデザインもレトロを通りこしてシュールさが漂っていました。

遊園地は非日常を演出するものですから、ある程度は常軌を逸しているのが正しい姿かもしれませんが
メルヘントレインの周りに配置されたまつげの長いオレンジ色の猿やら紫の眼のピエロなどは
得体のしれない何かに浮かれてバンザイのまま気絶した酔っ払いのようで、一日中眺めていると美的感覚がやや歪むのは否めませんでした。

パステルカラーの機関車が音楽と共に緩やかに上下しながら同じところを回るだけの単純な乗り物でしたが、その生ぬるさゆえに小さいお子さんには人気でした。

運転が非常に簡単だったため新人は必ず最初に担当させられるのです。
気楽といえば気楽ですがシーズンオフには一日の乗客がたった三人などということも珍しくなく、退屈な持ち場でもありました。

先輩の補助も必要なくなり、ついにひとりでメルヘントレインを担当する日がやってきました。
見渡す限りお客さんはいません。
話し相手もいない、掃除も終わってしまった、ぽかぽかと暖かい陽気、の三拍子がそろって眠気と戦うのに必死でした。

メルヘントレインの支柱からは放射状にアームが突き出しており、それぞれ親子一組がなんとか乗れるくらいの小さな車両が固定されています。
それらが中央の柱が回転することによってドーナツ型の軌道を描いて走るのです。

支柱は地下まで伸びていて、見えないところに動力装置があります。
ときどき機械整備士さんが点検のために支柱を伝って降りていきます。
覗き込むと真っ暗で奈落のように感じられました。

うららかな春。
終わりかけの桜のはなびらがふわふわと舞っていました。
そのとき奈落の底から声がしたのです。

「シャケ弁にするか?」

音の割れたスピーカーのようなだみ声でした。

機械整備士さんが私の知らないうちに下にもぐっていたのでしょうか。
しかし整備のときは安全のため必ず運休の看板を掲げて運転室の電源をすべて切るのが原則です。
私の知らない間に点検するのは不可能なのです。

当時の私は四年近く勤めたブラックすぎる職場に耐えられず辞めてしまった後でした。
貯金を使い果たし、食いつなぐためにバイトを始めたものの先行きはまったく見えず、離職に追い込まれたのは自分の力不足のせいではないかという考えにとらわれかけていました。
他にやりたいことも、やれそうなこともなく、虚無感だけがふくらんでいく日々。

財布の中身がすべて偽造コインに変わってしまうという珍奇な悪夢に悩まされていて、
(このころ遊園地の両替機に偽の五百円玉を入れて出てきた百円玉をせしめるセコい犯罪が多発していたのです)
精神的に不安定だという自覚があり、ついに幻聴がきこえ始めたのかと思いました。

幻聴に返事する幻聴も聴こえてきました。
「シャケ弁は飽きたで、他には何かねえのか」
「カツにするか?」
「なにカツよ?」
「豚か、チキンか…」

ザザザザザという雑音が入り、会話は途絶えました。

下を覗き込みましたが人の気配はありません。
背筋がぞっとして、それから徐々に平衡感覚が狂っていくような不安に襲われました。

二度目に同じような声が聴こえた日、私はありったけの勇気をふり絞って整備士さんにこのことを申し出ました。

ここの機械整備班はいかつい雰囲気の肝の座ったお兄さんたちばかりで、
おそろいのツナギを着て重たい安全靴の音を響かせ、映画アルマゲドンのごとく並んで歩く堂々とした姿に、若いバイトたちは畏敬の念を抱いていました。

最初の人は犬に話しかけられたみたいにポカンとしていました。
「点検?ここ1ヶ月は地下まではやってないよ」
「でも本当です。男の人の声で、お弁当の話をしてました」
私はなんとか信じてもらわねばと食い下がりましたが、彼はあからさまに馬鹿にした口調で「あんた大丈夫?」とこめかみをつついて去っていきました。

やがて何がどう伝わったのか、整備士さんたちが入れ替わり立ち替わりやってきて私に声をかけるのです。
たいてい「うぃーっす」とか「あんた新人なんだって?」といった軽いあいさつの言葉でしたが、
にやにやしながら「今日も声きこえてんの?」などとからかう人もいました。
要は珍獣見物に来ているわけです。

通りすがりに犬をかまうようなノリで毎日からかってくるので、だんだんこちらも平気になって「今日はきこえませーん」などと受け流すようになりました。

再びあの声が聴こえた日、私はもう取り合ってもらえないと思いつつ一応申し出てみました。
すると意外にもすんなり地下の装置を調べてくれました。

結局なにも異常はみつからなかったのですが、油まみれになって穴から出てきて「おかしいところはないから大丈夫。お化けもいないよ」と保証してくれました。
その日の整備士さんは散々からかわれた私を憐れんでくれているようでした。

「あんたどうして遊園地に来たの?」
「前と全然ちがう仕事がしたかったんです」
「どのへんがちがうの?」
「人が亡くならないところですね」

以前は救急病院の事務方でした。
体力的にキツかっただけでなく、私のヤワな神経は患者さんが頻繁に亡くなることに耐えられなかったのです。

やがて何がどう伝わったのか整備士さんたちが前よりも親切になったような気がしました。

「整備の人って怖そうに見えるけど意外と優しいね」
私のその言葉を聞いたバイト仲間はあらたまった口調で尋ねてきました。
「〇〇さん、あなた相当な修羅場くぐり抜けてきたらしいって噂されてるけど、本当?」

シーズンオフはみんな暇なので噂に尾ひれをつけるのはレクリエーションです。
いつの間にか、私はかなり物騒な仕事についていたサバイバーだという情報が遊園地中を駆け巡っていました。

私が元極道の妻でもなければ半グレ集団から命がけで逃げてきた元ヤンでもなく、パワハラ上司をぶん殴って病院おくりにした狂犬でもないことがようやく周知されたころのことです。
機械整備班の中でも一番のベテランさんが定期点検のためにメルヘントレインにやってきました。

ベテランさんは点検が済むと機械油で汚れた手袋をはずしながら、こともなげに言いました。

「前にあんたが言ってた変な声のことだけど、こういうでかい金属のパイプはアンテナみたいな役割を果たすことがあって、近くで強力な違法電波が飛んでるとそれを拾っちゃうんだよね」

シャケ弁か豚カツか話し合っていたのは遊園地のそばを通る違法無線トラックの運ちゃんだったのです。
(最近テレビの情報番組でこれと同じ現象がガードレールで起きる例が紹介されていました)

メルヘントレインはその後、老朽化のため解体撤去されてしまいました。
更地の上にたたずんだ私は、ここは奈落の底じゃない、地獄なんて始めからなかったんだと悟りました。

たまにシャケ弁を食べるとメルヘントレインの脳天気な音楽が聴こえてくるような気がします。













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