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習慣という名の縁起物。

母親が、富士山を見に行くと言って朝早く出かけていった。東海道新幹線の駅「新富士」に行くと、フォームから富士山が見えるのだそうだ。
「東京にいるうちに。縁起物だから」と彼女。
東京から決して近いわけではないけれど、とにかく「縁起物」を拝んできたいらしい。

確かに新幹線や飛行機で、富士山が目に入ると不思議とテンションがあがる。美しい、というのもあるけれど、つい願い事を唱えたくなってしまうので、富士山=縁起物というイメージがあるんだろう。

縁起物といえば、先日、TV台に置いていた招き猫を母親がうっかり落として壊してしまった。私は気にもしなかったのだけれど、自分が壊したせいか母親がいたく気にして、替わりを買ってきた。
が、買ってきたものは、招き猫でもなんでもなく、外国の少年風の瀬戸物の置き物。「縁起物じゃないから、壊しても大丈夫」ということだった。

ふと思い出したが、今日は桃の節供、ひな祭りだ。
子どもの頃、我が家にも小さな可愛い雛人形セットがあって、毎年母親が飾ってくれたものだ。飾りながら母親が言い続けていたのが、「雛人形は3月3日中に片付けないとお嫁に行けない」という言い伝えだ。この言い伝えを頑なに守っていたにもかかわらず、私が嫁に行けていないので単なる迷信だったのだと思う。
いずれにしても、縁起物というのは扱いが面倒なのだ。

縁起物かどうかはさておき、20歳のときに成人したお祝いに母親からもらった真珠のネックレスを、もらったその日から肌身離さずつけている。
もはやお守り。これがないと不安だし、チェーンが切れたりすると落ち込み、すぐに修理に出しにいくほどだ。
風水で「玄関に靴を置きっぱなしなのは気の流れを汚す」と聞いて以来、家に帰るや靴は下駄箱に片付けたくなる。人の家で靴が置きっぱなしになっていると、気になって仕方ないほどだ。
縁起物はおそろしい。

縁起物ではないけれど。毎朝やっている習慣を寝坊してできなかったりした日は、なんとなく気持ちが悪くて、すっきりしない。
取材の前に「人」という字を3回手のひらに書いて挑む習慣があるのだけれど、なんらかの理由でこれができなかったときも、不安でしかたない。
習慣って、お守りのような、縁起物のようなものなのかもしれないなぁ。
noteを毎日書く習慣ができて思う。
これができないとやっぱり気持ちが悪い。
習慣が心を安らかにしてくれるのであれば、富士山と同じ。
やろうと決めていることがちゃんとできた日は、なんとなく気分がいい。
習慣という縁起物に支えられて暮らしているんだなぁ。
(悪い習慣は別だけど!)

ちなみに、いつもより少し早く起きることができた日は、縁起がいいと勝手に思っているし、事実そんな気がする。

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