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何が記者を殺すのか 斉加尚代:著

本書はリベラルの為の闘いの教科書のような本である。実際に彼女の作ったドキュメンタリーは見た事がないので、映像作品への評価はできないが、書籍の方が過激な事を言っているのではと推察される箇所が複数あった。ほとんどの人が見ていないであろうテレビ放送は問題視され、書籍はほとんどスルーされてしまうというのは、活字派としては少し寂しいものがある。一例を紹介したい。

余命と杉田氏、両者の著作を読み込む日々。それは意味不明の暴力を浴びるかのような精神的にもきつい作業でした。標的にされた当事者ではない私ですらダメージを受けるのです。差別や攻撃の対象として狙われた当事者たちがこれら言葉の塊を目にしたら体調を崩すのではないかと痛切に感じます。そしてこの時、初めてそばに誰かスタッフがいてほしいと心から願ったのでした。

ピンときた読書もいると思いますが、1点をつけたのは政治ジャーナリストの田崎氏です。政治家べったりの会食を揶揄され「スシロー」の異名を持ちますが、最低点の理由はどうやら「中立ではない」と判断したことにあるようです。

余談だが、田崎氏は目立つテレビだけでなく、こんなところでも仕事をこなしておられるのには頭がさがる。

冒頭にも書いたが、この本は闘う教科書として、非常に優れた内容だと思う。正直言って、今、リベラルは負けっぱなしで全く勢いがない訳だが、両者の主張を並べればどちらが正しいか本能的に理解できる筈だ。それが理解出来ないのが、一部の極右、彼らの言葉を借りれば愛国者の皆さんである。普通に考えれば数の力で圧倒しそうな筈なのに、そうはなっていない。なぜなんだろうと考えた時、象徴的な対比が本書の中にある。同じような団地に住みながら全く対象的な境遇におかれている二人の人物が登場する。ひとりはヘイトブログ主宰者と呼ばれる人物で、出版社に唆されて五冊も本を出版し、寄付を呼びかければ簡単に1,000万を超える寄付が集まり、もう一方の日本書籍の元編集者である池田さんは、慰安婦などの戦争加害の記述をめぐって政治圧力に晒され、会社が倒産し、妻子に去られ、割引シールの付いたコンビニ弁当で日々を過ごしている。真実の為に闘ったのはどちらなのか?誰の干渉もなく感想を述べれば後者の方が圧倒的に多いだろう。しかし、置かれている境遇は真逆である。結局金になるかどうか、愛国は金になるという事。まずは、この事実に向き合わないといけない。デマかどうかも極端に言えば関係ない。そこを争っても疲弊するだけである。次に、リベラル的発言をすると苛烈なバッシングに合うため、発言する事に臆してしまうという実情がある。これに関して、本書はどういうきっかけでバッシングが起こるのか丁寧に検証している。ほとんどの場合、最初のきっかけは政治家の発言である。その一言をきっかけにお墨付きを得たとでもいうように、バッシングが開始される。大抵の場合、狙われるのは個人である。そして精神的ダメージを受けて口を紡ぐことになってしまう。他の者は、その様子に恐れをなして、発言すること自体を辞めてしまう。斉加氏が一番ショックを受けたのが仲間である同業者の反応だったというのが象徴的なエピソードである。

「市長に対しリスペクトが足りなかった」「失礼な取材だ」「さっさと質問をやめれば炎上せずにすんだのに」、こうした反応が同業者から寄せられたのです。これには心の準備ができていませんでした。匿名の市民からの罵倒は予想もできて、さほど堪えなかったのですが、、、。「相手が権力者であっても対等に取材しろ」「相手が答えるまで質問を続けるのが記者の職責だ」、そう先輩から学び、基本を遂行しただけ。そんな考えの私は、もはや天然記念物にも似た存在なのか。周囲の視線にふと考え込む事が増えます

しかし、バッシングの渦に自ら飛び込んで彼女が示したのは、そうした声が限定的でありボットを使って水増しされているだけであり、何か信念があってやっている訳ではないので、持続性がないということである。そうしてこれが一部政治勢力に利用されているという事である。
これを踏まえた闘い方の第一は屈しない事である。正しいと思うことを臆せず発信する事である。干される消されるとよく言われるが、簡単にはそうはならない。もし、そうなるなら斉加氏が閑職に異動させられてないとおかしい事になる。
第二は数を集める事である。潜在的な賛同者の数はリベラルが圧倒的に多い事はわかり切っている。たが、大多数は面倒ごとに巻き込まれるのではと遠巻きに見ている状態なのである。そうした人たちをいかにして巻き込めるか。結局そのためには妨害に負けず正しい事を発信し続けるという事に尽きるのかもしれない。

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