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1979


ばあちゃんちから幼稚園まではバス通学だったから、おなじバスに乗るホリくん兄弟と僕たち兄弟の合計4人は、毎日、誰が最初にバスのブザーを押すか競争していた。

夏には、青リンゴのカキ氷の真ん中に白いアイスが詰められた、いわゆるフロートと言われるカップアイスが好きで、というかカップの底にある丸いあたりくじが楽しみで、あたりが出るまで食べすぎて結局、お腹を壊してしまった。

人生初の子供だけのお泊まりは、自分でも拍子抜けするくらいさみしくも心細くなくて、虫除けの蚊帳の中でひとり布団に入っていると、まるで皇族や貴族になったみたいでやけに誇らしかった。

ばあちゃん家のテレビは、あのサザエさんちと同じ家具調タイプで、でも東芝じゃなくて、ナショナル製だった。ばあちゃんは、掃除機も冷蔵庫も家電はすべてナショナルで統一するくらい、無類のナショナル教の信者だった。確かに、ナショナル=国、だし、なんか分かる気がする(笑)

明るいナショナル〜、みんなのナショナル〜

そのテレビでは、ばあちゃんが大好きな水戸黄門をはじめとする時代劇をよく見ていた。もちろんメガロマンやバトルフィーバーにも夢中になったけど、一番楽しみにしていたのはもみあげがワイルドなマチャアキ主演の西遊記だった。金閣、銀閣のエピソードは、子供ながら切なくなったし、ゴダイゴの歌と一緒に映し出される中国のお寺や石仏の映像には、たまらなくロマンを感じた。

シルクロード!

たまに夕飯で出てくるごちそうの定番は、出前のうなぎか寿司だった。うなぎは小骨がのどに引っかかって一週間くらい取れなかったことが一番の思い出だ。寿司は、バカみたいにイカばかりひたすら食べていた。〇〇くんは、イカが好きなのね〜と嬉しそうに大人たちから言われたのが僕も嬉しくて、本当にバカみたいにイカばかり食べていた。

あの頃はクリスマスケーキもまだバターケーキだった。味よりもマジパンのサンタやトナカイ、プラスック性のひいらぎや、チョコのプレート、そして、繊細なクリームのデコレーションの特別感にワクワクした。

聖夜の夜、深夜に目が覚めた僕は、慌てて枕元を探した。まだプレゼントはなかったことに少しガッカリしていると、一階に降りる階段のあたりから、女の人が、おいで、おいで、とささやく声が聞こえた。
うちにはサンタの代わりに幽霊が来た、と思った僕は怖くなって頭から布団をかぶってぶるぶると震えた。気づいたら、朝になっていて、枕元には僕がサンタにお願いしたバトルフィーバーの船のおもちゃがちゃんと置いてあった。しかし、プレゼントの包装紙をバリバリと破るあの瞬間って、割と人生最高レベルに幸せな時間かもしれない。

翌年の一月、幼稚園の卒園を待たずに、僕らは大阪に住む父と暮らすため、おばあちゃんの家を去ることになった。

タクシーの窓から、手を振るおばあちゃんに向かって泣き叫ぶ弟の気持ちは痛いほどよくわかったけど、なぜだか涙は出なかった。

大阪に向かう新幹線の中で、親友のホリくんからもらった封筒を開けた。

そこには、一枚の画用紙が入っていて、青空をバックに走る新幹線の絵がクレヨンで大胆なタッチで書かれていた。

僕は大好きだった友達からのその思いがけないプレゼントがたまらく嬉しかった。あの絵がどんな絵だったかいまだに克明に思い出せるくらいに。

そして、その想いはどうやら片思いではなかったようだ。

あれから約30年後、ばあちゃんのお葬式で再会した僕たちは、しっかりと肩を組んで記念写真を撮り、それ以来、ずっと年賀状のやりとりを続けている。

お互いに仕事が忙しくて、なかなか会えないけど、いつか落ち着いたら、あの頃の思い出話とその後の僕たちの人生について、酒を飲み交わしながら、彼と朝まで語り尽くすのが、僕の密かな夢だったりする。

あれは、1979年のこと。

何十年も生きたうちの、わずか一年に過ぎないのに、何もかもが色鮮やかだったスペシャルな時間だった。





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