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ファミリールーツを遡る

新年明けて間もなく、父方の家族・親戚一同で集い、父も含めコロナ禍に亡くなった家族を偲ぶ会を持った。人一人がその人生を終えるというのは、それぞれに何とも愛おしいような大切な重みがあるなあ、と想いを馳せる良い時間となった。

様々な手続き上、父の戸籍謄本やその附票など全てを入手しなければならなかったので、本籍所在地であった大阪・京都・高知の役所のホームページから申請書を入手。必要なら電話をして郵便局に行って小為替と切手を買って返信用封筒を入れて、と細々と面倒な仕事だった。こういった事務手続き、母はもう出来ない。

大阪の役所の窓口で「内容に間違いが無いか、ご確認下さい。」と手渡された6ページにも及ぶ戸籍謄本、1枚目にまずびっくりした。

大阪府西成郡難波村大字
おいおい、『グリコのなんば』は難波村だったのか!
続き、第千五百九拾八番屋敷
おいおい、城下町の屋敷にお住まいかい!

そういえば、近くの大きな郵便局敷地内には「紀州藩邸跡」という石碑がポツンと立っている。大阪城を中心とした太閤さんの町だったんだなあ、と思わされる地名がそこかしこに発見できる。おもしろい!東京は皇居(江戸城)、京都は御所(天皇のお住まい)、確かパリも凱旋門が中心に町が出来上がっていたと思う。

人名がまた面白い。(失礼!)

ひいじいちゃん(曽祖父:そうそふ)は明治三年生まれの金三郎さん。養子として養母の家に入った。妻のひいばあちゃん(曽祖母:そうそぼ)は同じく明治三年生正月十八日生まれ(一月とは書かれていない。)の捨鍋さん。ラストネームは無い。昔は「捨」という名前はラッキーネームだったと叔母が言っていた。そういえば、太閤秀吉さんの長子、鶴松君も幼名は「棄」だ。

おじいちゃん(祖父)は明治参拾壱年九月難波村生まれの長男君。養子となった金三郎さんの長子として誕生した男の子。捨鍋さん、ほっとしたんだろうなあ。

おばあちゃん(祖母)は明治四拾年八月生まれで静岡県伊東の家の四女。その頃には大阪市浪速区となっていたおじいちゃんの実家に嫁いだのが大正拾参年七月。私が幼い頃「大阪のおばあちゃん」がなぜ大阪弁を話せなかったのか、なぜ祖父母の還暦祝いに父が両親を伊豆箱根旅行に連れて行ったのか、やっと分かった。

ちなみにおばあちゃん方のお父さん(曽祖父)は伊三郎さん(やっぱり伊東の人だ!)、お母さん(曽祖母)はいし(ひらがな)さん。昔の女性にはラストネームが本当に無かったんだなあ。でも、アメリカ生活が長くなりファーストネーム呼びが慣れてくると、特に女性に対してはファーストネームがその人の個性・性格や形(なり)を表しているようで私は好きだ。

この間、映画「ゴールデンカムイ」を観て来た。日露戦争が1904年(明治37年)に勃発しているから、まさに祖父母はあの時代の価値観の中に生まれ、第一次世界大戦を生き延びて婚姻を結んだ。急に時代が身近に迫って来る。

父は太平洋戦争の頃小学生だった。大阪には戦闘機がしょっちゅう来たらしい。雨のように焼夷弾を大量にばら撒き、町を火の海にしたそうだ。学校からの帰り道、超低空飛行で降下して来た戦闘機が下校中の子ども達目掛けて機関銃をぶっ放す。姉が「危ない!」と庇ってくれながら橋桁まで全速力で走ったとよく言っていた。だから、「テレビのドキュメンタリー番組であのB29のエンジン音(低音のブルルルルル)が聞こえると未だにゾワゾワ〜っと鳥肌が立つんや」とも言っていた。今、生きていたら85歳。

父や祖父母・曽祖父の過ごした大阪の町はここで体験することができた。
外国人観光客も多く、八千草薫さんのナレーションが最高に素敵だ。

アメリカは国の歴史が浅い上、戸籍制度が無い。しかも、ネイティブ・アメリカンをほぼ皆殺しにしたので、イギリスからのピリグリム(有名どころはメイフラワー号)、または、中南米からのスペイン人(有名どころはコロンブス)が来る以前の歴史や文化が分からない。ゴールデンカムイでアシリパちゃんがアイヌの伝承や文化・言語の未来を心配するのも頷ける。

子どもが小学生なら「ファミリーツリー(家系図)を作りましょう!」的な宿題がたまに出るけれど、どの国の子もせいぜい祖父母まで。例外はジューウィッシュ(ユダヤ人)。世界に散らばるユダヤ人だからファミリールーツをとても大切にしている。

王族など高貴な位の方々は遡ることができる国はあれど、庶民がファミリールーツを遡れる国はなかなか無い。とても面倒だけど、とても貴重な戸籍制度。大切にしなきゃな、と思った。


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