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わたしを守るたくさんの小さな思い出

最近改めて、父に感謝することがあったので、
今回はオマージュも込めて父のことを書いてみたいと思います。

記憶を一番奥のほうをぐーんとたどって、
父のことで思い出してみるのは何かといえば、
おどけたように名前を二回呼ばれ、

「ん?」

と振り向けば、

「寝屋から坊主が出てきたと!」

と、うれしそうにこればっかり言うこと。
もう!とあきれるわたし。
このぷうっとふくれる呆れ顔が見たかったのか、
しょっちゅう、しょうもないやりとりは繰り返された。

さすがに大きくなってこのおふざけはなくなったが、
つくづく、
父はユーモアの人で、親ばかだった、と思う。

わたしが幼稚園の年長か、小学校低学年か、
暑い夏の日、畑にとうもろこしがたくさんなっていた。

母は、とうもろこしが大好きだったので、
喜ばすため一本もぎって、わくわくしながら家に帰った。

「お母さん!とうもろこし取ってきた!」

と喜んで渡すと、母はものすごい剣幕でわたしを叱った。
それは盗みだと。

喜んでもらえると思っていたのにすごく怒られてしょんぼりしていると、
父が横から、

「どうせ取ってくるならリヤカーいっぱい取ってこんと♪」

と、にこにこしながら冗談ぽく茶化したが最後、
母の怒りは父に向き、激しく怒られていた・・・。

うっすら笑いながら、横目でわたしを見て、
かわりに怒りを受け止めてくれた父。

わたしは家にあがらず、とうもろこしを畑に返しにいった。

怒られている父の顔がおもしろくて、にやにやした。


わたしは小さい頃、絵が得意だった。

高校卒業後の進路を決める際、
田舎から出るのを良しとしない父親を説得し、
県外の美術系の短大に進学させてもらった。


今思えば、親の心子知らずとはこういうことか、
と苦笑いするのが、
バイト掛け持ちしつつも毎週末ディスコでエンジョイしまくり、
常に金欠だった。

あるとき、
仕送りまでいよいよお金がない・・・とかなり困ったとき、
勇気を出して父に電話した。

「財布に50円しかない」と言うと、
返ってきた言葉が、なんと、

「かわいそうに!」

だった。

まさか、かわいそうに、と言われるのは想定外だったので、
(なんなら怒られる気満々)
その後、罪悪感に若干苦しんで、
お金の無心することを一切やめたのだった。

今日のカイト(カモメ)

わたしが小さい頃は、父は鰹の一本釣りの漁師だったけれど、
若くから持っていた持病で体が辛かったのか、
一時期海からはなれ、生命保険の仕事をしていた。

人が大好きで、人と喋るのが大好きなお人よしの父にとっては、
とても楽しくやりがいのある仕事だったようだけど、
ただ保険料を立て替えたり、
月によっては成績がふるわず、家計が苦しいときがあったようだ。

そんな中、わたしを私立の美術系学校に通わせてくれたのだった。

いよいよ、
母ににじり寄られ、覚悟を決め、大好きだった保険の仕事を辞め、
今度は海の、漁師ではなく汽船乗りになった。

その頃は若い頃から持っている肝臓病の他に、
糖尿病も患い、体重がかなり減っていたにもかかわらず、だ。

わたしは短大を卒業して、新卒で写真の仕事をしていた頃と思う。
当然若かったし、父は不平や不満や、からだがキツイなんてことは一切言わなかったので、どれだけしんどかったかに思いをはせることができなかった。

sea


いま、なんと父が他界した年齢を超えた。
お父さんより年上になってしまった。
父は病気ではなく、船での事故で亡くなった。

体力とスピーディーな判断や、動きが必要な海の仕事に、
普段からゆっくりとした動きや、体調不安をずっと抱えている父にとっては、海の仕事はあまり向いていると思えなくて、
しんどかったやろなぁ、と今だからいたわれる。

同年齢になったからいえることは、
年を重ねても「なんだ、まだこんなもんか」と思うこと。
若い頃もっていた心細さも、ちゃんとまだ持っている。

多少経験が増えて厚かましくなったくらいで、
こんなにまだまだ不安定だったのか。
知らなかった。

去年のお正月、「かわいそう」という気持ちを捨てたくて、
バイロンケイティの「work」を実践してみた。

素人ながら、うんうんうなりながら、
導き出した最終の結論は、

「お父さん、かっこいい」

だった。

お父さんはかっこいいし、おもしろい。

決して、かわいそうなんかじゃない。

今日のソラ(カランコエの花言葉は、あなたを守るたくさんの小さな思い出、だった気がする。父と小さいときは良くデートをしたものだ)











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