見出し画像

より健全な有閑階級を実現させるために、主流派経済学が削ぎ落としてきた哲学や論理を活用する必要性について

 私は近代的なミクロ経済学やマクロ経済学、マルクス経済学も履修している。3つとも必修科目だったが、経済学をバランス良く学べた方なので、今思えば良心的な大学だった。しかし、主流派経済学(ミクロやマクロが該当する)の削ぎ落とした部分の深淵に踏み込むまでは至らなかった。
 リカードをはじめとするスミスの後輩学者たちは、経済の事像を分析するために、あえて単純化させる手法を用いてきた。これは全くおかしな研究方法というわけではない。ただしそれは、一歩まちがえれば非科学的な行為に堕落してしまうだろう。たから経済学を学ぶ者は、現実の経済の複雑さを少しでも理解するために、過去の経済学者の古典などを読んでみる必要もある。

 ヴェブレンの「有閑階級の理論」を読めば、人間の「合理的経済性」の複雑さが理解できると思う。金銭的に他人と張り合おうとする性癖は、スミスの道徳感情論的に説明することもできる。
 あの道徳学は「人の共感する性質」を始点として、これを内在化させたのが「公平な観察者」であり社会は人の行動や営みに「適合性」があるものを定めて、それに合致するものを是認し合致しないもの否認するという分析になっている。ヴェブレン効果(顕示的消費)は庶民のなかでも浸透して、今でも消える気配は全くない。なぜかというと、他人から良い評価を得るための最低限度の消費を、捨てることは極めて困難だからだ。もし捨ててしまえばスミスが考えたように、「適合性に背いたものであり社会が否認する行為」になってしまう。そんな人はどうしても社会で息苦しくなってしまう。

 こういうと、「私は顕示的消費なんかしていない」と思う人もいるはずだ。しかし例えばの話、「ジーパンなんて堅苦しい格好はしたくない。大都会のど真ん中でも動きやすいジャージを人前でも着ていたい。それを非難するやつらがおかしい!」などという人がいたら、我々はどう思うだろうか?他人に良く思われるための最低限度の消費は、生活に必要不可欠な存在だ。
 ただし、これを過度に実行する人たちは精力を消耗しているのも事実だ。「SNSのいいねを求めすぎて、神経を磨り減らすほど金と労力を使いまくった」なんていう話はザラにある。そういうミクロな問題も深刻だが、マクロな問題としては、社会全体が過熱しすぎた金銭的な張り合いをすることが、バブル経済を生み出すこともある。そんな顕示的消費を批判したヴェブレンは、晩年は質素な暮らしをしていたという。

 だが、我々の社会は有閑階級を消すことなど不可能だ。やるべきことは持続可能な社会の実現を目指すことで、穏やかな再分配と多様性の容認が必要というなのだ。現行の資本主義は、主流派経済学的なやり方に頼りすぎている。だから制度学派的な政策をある程度容認すべきである。具体的にいえば、市場における売り手と買い手の行動に対する規制の強化だ。もちろん、規制を強化すること自体も慎重にやらなければいけない。しかし、投機的な株主を野放しにした資本主義はいつかは破綻する。有閑階級のモラル・ハザードを回避するためにも、強欲で非人道的な投機は制限していくべきだ。

 私たちのような庶民も、間接的に有閑階級の影響を受けて、それに近い行動をするのは避けられない。だから、有閑階級の源といえる略奪的な気質(金銭的な職業へと繋がる気質)を、我々は上手く管理していく必要がある。