言葉と慈しみ

 誰かが自分に対して発する言葉、うめきや落胆のため息。
 昔、妙に気になり、不快になる時があった。直接、攻撃されていないけれど、人を見下すのは言葉でなくてもできるのだと感じた。
 もちろん、そのような場にいなければ良いだけなのだ。しかし、想定していない事象に不意をつかれると、避けようもない。
 文章となると、話し言葉より、不快にさせる破壊力がある。話し言葉ならいつか記憶から消えていくこともあるけれど、文章は、そうはいかない。

 そんな時、「慈しみ」という言葉と改めて出会った。今までこの言葉を知らなかったわけではない。しかし、自分に慈しみという言葉は当てはまるのかなど、考えたことも無かった。
 スマホ検索では、慈しみとは心のやさしさと出てくる。生きるとき、不安や苦しみは常に傍らにあるけれど、それらを消し去るなど出来はしない。そうであれば、自分の中に慈しみという世界観を持ち、生きていくのはどうだろう。

 誰かが発する言葉が妙に気になったのは、自己肯定を求めて不快を呼び込んだのか。もっと、慈しみという広く深い世界の中にいれば、ありがとうの眼差しやオーラを出せたのかもしれない。
 命をまっとうする時まで学ぶのが、人生というものかと、知った日だった。


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