アナログ派の愉しみ/音楽◎ベートーヴェン作曲『悲愴』

疾風怒濤の
楽聖の自画像


クラシック音楽で『悲愴』と言ったら、真っ先にチャイコフスキーの交響曲第6番が思い浮かぶけれど、かつてはベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番も負けないぐらい気を吐いている時期があった。理由は明白だ。録音メディアがLPだったころ、楽聖の三大ソナタとして、この『悲愴』と第14番『月光』、第23番『熱情』を組み合わせたアルバムが盛んに出まわっていたからで、だれにも親しみやすいニックネームを持ち(ベートーヴェン本人がつけたのは『悲愴』のみ)、これらの演奏時間の合計がちょうどLPの表裏に収まるという事情による。つまり、はなはだご都合主義ながら、当時、けっこう値の張ったLPならではのセールス戦略であって(『運命』と『未完成』の組み合わせが最強の定番)、わたしもそれに釣られてこの曲と出会ったのだった。

 
ベートーヴェンが1798年から99年にかけて、すなわち20代の終わりに書き上げた『悲愴』は音楽による青春の自画像だろう。ウィーンを拠点に音楽家として徐々に名声を博する一方で、音楽家の生命線である聴覚の障害に苛まれ、また、フランス革命の波濤がヨーロッパの貴族階級を揺るがすのに高揚しつつ、家庭教師の仕事で知り合った高貴な令嬢たちとの恋愛は実を結ぶことがない……、そんなかれの疾風怒濤の精神生活がこの全3楽章のピアノ・ソナタに反映している。と同時に、やがて耳疾は絶望的な状況となって「ハイリゲンシュタットの遺書」をしたためるにおよび、ようやく危機を乗り越えたのち、確かな足取りで「傑作の森」へと分け入ってベートーヴェンがベートーヴェンとなっていく、そのさなぎの時期の心象風景を物語っているとも言えるかもしれない。

 
わたしが大学生の時分にバイト代をはたいて買い求めたのは、ドイツのピアニスト、ウィルヘルム・ケンプが演奏した三大ソナタのLPだ。1895年ブランデンブルク地方で教会オルガニストの父親のもとに生まれたケンプは、幼時からピアノやオルガンの才能を発揮し、ベルリン音楽大学を卒業するとピアニストとして活動をはじめ、伝説的なニキシュ指揮のベルリン・フィルとも共演し、第二次世界大戦の激動の時期を経て、ベートーヴェンをはじめ、バッハ、モーツァルト、シューベルト、シューマン、ブラームスなど、ドイツ・オーストリア音楽においてウィルヘルム・バックハウスと双璧の大ピアニストとなる。そんなケンプが1965年にステレオ版のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の一環として録音したのが、わたしが初めて耳にした『悲愴』だった。

 
第1楽章の出だしの和音から、ケンプのピアノは落ち着いていながら鈍重にはならず、青春の甘さと苦みを噛みしめるようにはじまる。第2楽章のロンドでは、やや光沢を抑えた音色が美しい旋律を紡いでいき、ひしひしと憂愁の気分が込み上げてくる。そして、最後の第3楽章では、いかにもケンプらしい演奏が現われる。ここでもロンドの主題ではじまった冒頭の第6小節目の高いラ音と、つぎの第7小節目のソ音に、それぞれふたつの装飾音符のつけられた個所がある。バックハウスを含めて、他のピアニストは装飾にふさわしく鍵盤を撫でるがごとく奏でるのに対して、ケンプは正規の音符であるかのように律儀に弾いてみせ、それだけに青春のこらえた悲哀がきわだって胸に迫ってくるのだ。いまや70歳を数える巨匠が、遠い昔日を振り返って可能となった青春の表現だったろうか。

 
この録音の少し前、1961年にケンプは来日してベートーヴェンのピアノ・ソナタ全32曲の連続演奏会を行ったが、その際のインタビュー取材に応えてこんな発言が残されている。「ベートーヴェンは、そのピアノ・ソナタにおいて、もっとも雄弁に自己自身を語っています。その点では交響曲もヴァイオリン・ソナタも、およばないでしょう。彼の無比の霊感や幻想を音響にもたらすためには、まさにこのピアノ、彼のもっとも愛した楽器ピアノを必要としたのです。それまでは、まったく貧弱だったこの楽器は、ベートーヴェンにより、いわば一人による管弦楽となり、その魂は解放されたのです。この時以来、ピアノの魂は、大地の子らの無限の喜びや悲しみを告げることができるようになりました」(渡辺護訳)――。

 
以来、わたしは数十種類の『悲愴』を聴いてきたけれど、こと第3楽章の装飾音符の個所については、どうしてもケンプの録音と較べてしまい失望するのが習いとなって現在に至っている。初めて出会った演奏に呪縛された例だろうが、わたしはそれをかけがえのない人生体験と受け止めている。ところで、今日ではかつてのLP一枚の値段でベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集のCDセットを買えるばかりか、インターネットの無料ダウンロードでも容易に手に入れられるようになった。結果として、もはや三大ソナタといったキャッチコピーは姿を消し、それにつれて『悲愴』のネーム・バリューもずいぶん減衰したように思う。もちろん、音楽をだれでも気軽に楽しめるのはけっこうだが、引き換えに、ひとつひとつの録音と真摯に向きあう態度まで失われるとしたらまことに惜しい。
 

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