アナログ派の愉しみ/音楽◎ベートーヴェン作曲『ウェリントンの勝利』

楽聖の傑作と駄作
その差とは?


ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが生前、最も華々しい喝采を博した作品は『ウェリントンの勝利』(1813年)といわれている。しかし、われわれは今日、この楽曲をコンサートで耳にすることはまず不可能だろう。

 
フランス革命後に頭角を現しヨーロッパ大陸を席巻したナポレオン・ボナパルトが、ロシア遠征で頓挫して、ようやくその威光に濃い影が差したころ、1813年6月に今度はスペインのビトリア戦線で、ウェリントン侯爵アーサー・ウェルズリーの率いるイギリス軍がジュールダン元帥のフランス軍と戦って勝利を収めた。これを記念してベートーヴェンに作曲の仕事が依頼されたのだが、かつてナポレオンに肩入れして失望を味わった過去があるだけに、ことのほか勢いづいたらしく、わずかふた月ほどで演奏時間約15分の楽曲ができあがって『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い(戦争交響曲)』と名づけられた。

 
全体は二部構成で、前半ではイギリス軍とフランス軍の戦いを、それぞれの民謡の旋律を交錯させることで描写し、後半では勝利したイギリスの栄光を国歌も引用して高らかに謳いあげるというもの。何よりの特徴は、ベートーヴェンの作品として最大規模のオーケストラを必要とするばかりか、賑々しく軍楽隊やマスケット銃、カノン砲のたぐいまで持ち込むという、前代未聞のスペクタクルが企図されたことだ。かくして、その年の12月にウィーンで、作曲家本人の指揮により交響曲の『第7番』『第8番』とともに初演されたコンサートでは凄まじい熱狂を巻き起こしたという。

 
このとき43歳のベートーヴェン自身、よほど感きわまったのだろう。親しい貴族の友人に宛てた手紙のなかで、ウェリントン侯爵の戦争の勝利とわが身の音楽の勝利を重ねあわせて、こんなふうに書きつけている。

 
「おそらく君は勝利のすべてを――僕の勝利も喜んでくれているのだろう。――今月27日大レドゥーテンザールで2回目の演奏会を開く。――やって来ないか。――今初めて聞くのだろうが。――僕はこうしてだんだんと貧乏から自分を脱け出させるのだ。というのは年金はまだ一文も受け取れないからだ。〔中略〕僕はといえば、そうだ、なんとわが王国は大気の中にある。しばしば風のごとく音が響きわたる。魂のなかでも響きわたる。――君を抱擁する」(小松雄一郎訳)

 
ところが、である。以後、めまぐるしく失脚と復権を経たナポレオンが、ベルギーのワーテルローでふたたびウェリントン侯爵のイギリス軍に大敗を喫して、ついに歴史の表舞台から退場し、1821年に南大西洋セントヘレナ島で世を去る。ベートーヴェンもまた、1827年にウィーンで波瀾の生涯を終え、大きく時代が移り変わっていくなかで、『ウェリントンの勝利』の人気が凋落するのも必然的な流れだったろう。のみならず、偉大な楽聖の名誉を汚す駄作と見なす風潮さえ生じて、あえて手を触れないのが通例となった結果、コンサートのプログラムにのることもすっかり絶えてしまったのだ。

 
ただし、幸いにもレコード録音はわずかながら存在して、そこにはカラヤンとベルリン・フィルの組み合わせで、しっかりとマスケット銃やカノン砲の音響も取り込んだ演奏も含まれて、楽曲のオーソドックスな姿を知ることができる。なるほど、ベートーヴェンの光輝ある傑作の数々に較べたら旗色が悪いのは確かだとしても、わたしは楽器の音と武器の音がぶつかりあう破天荒な音楽のバトルゲームに思いのほか胸躍らせた。

 
つまり、こういう事情ではないか。われわれは映像メディアの出現によって、現実の戦争であれドラマの戦争であれ、人間同士が殺しあう戦闘シーンをごくふつうに目撃するようになった。しかし、それまではいかに重大な戦争であっても、その戦闘の現場から遠く離れた人々にとっては見ることも聞くこともできず、雲をつかむような次第だったわけで、したがってベートーヴェンが初めてコンサートで戦闘シーンを再現して空前の成功を収めたのは当然の成り行きだろう。そのとき、聴衆にとってオーケストラは音楽の装置というより、エキサイティングなニュースメディアに他ならなかったはずだ。

 
現代の視点に立って、そんな『ウェリントンの勝利』を駄作と見なし、当時熱狂した人々の感性に首を傾げたところではじまらない。むしろ、いまやテレビやスマホがもたらす過剰な刺激にすっかり慣れ親しみ、自宅にいながら世界各地の戦争や紛争のシーンを目の前にして食事の手を休めることもない、われわれの感性の鈍麻こそ案じるべきではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?