アナログ派の愉しみ/音楽◎フルトヴェングラー指揮『ドン・ジョヴァンニ』

認知した婚外子が
13人という実績の上に


いまでもそうなのだろうか? かつて日本ではクラシック音楽の歴代指揮者にランキングをつける企画がしょっちゅう行われて、そうしたときにトップは判で押したようにヴィルヘルム・フルトヴェングラーと決まっていたものだが。

 
あらためて考えてみると不思議な気もする。1886年ベルリン生まれのフルトヴェングラーは、作曲家を志すかたわら、20世紀に入ったころから指揮の仕事もはじめ、1922年にベルリン・フィル、1927年にはウィーン・フィルの常任指揮者に就いて、名門オーケストラの両雄を手中に収めたのち、第二次世界大戦後にベルリン・フィルの指揮者に復帰すると、最後までその栄えある地位にあった。したがって、フルトヴェングラーの活動範囲はおおむねドイツ・オーストリアを中心とするヨーロッパにかぎられていたため、日本人でその実演を耳にしたのはごく少数に過ぎず、もっぱら古いモノラル録音のレコードで接するしかなかったのだから。

 
はるかに遠い存在のフルトヴェングラーに対して、日本のクラシック音楽ファンが絶大な敬愛を寄せたのはこうした事情だろう。戦前・戦中にドイツでめざましい活躍を繰り広げたことにより、ナチス政権のプロパガンダとして利用される一方で、迫害にさらされたユダヤ人音楽家の庇護に尽力し、のちにみずからも亡命を余儀なくされながら、ナチス政権への協力容疑で戦後の一時期活動を禁止されるといったように、今日では想像できないくらい政治と音楽がせめぎあいを演じた時代に最も重圧を負ったのがフルトヴェングラーであり、それがかれの演奏に比較を絶した深みをもたらした、と受け止めたのだ。そこには、同じ敗戦国の日本人ならではの思い入れもあったかもしれない。

 
かく言うわたし自身、かつてはフルトヴェングラーの威光の前にひれ伏して、雑音の彼方から聞こえてくる演奏に滂沱の涙をこぼしたものだ。その中核をなすレパートリーは、当然ながらベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー……といったドイツ音楽の本流で、現在でもいくつかの曲については他の追随を許さないと確信しつつ、これまでの重厚長大な存在感を少なからず疎ましく思うようにもなった。と言うのも、かれは戦争や政治との確執といった深刻な面とは別の分野でも、およそ他の指揮者が束になっても太刀打ちできない人生を歩んだことを知ったからだ。

 
フルトヴェングラーは生涯に2度の結婚をしている。はじめは1923年、37歳のときに相手はデンマーク人の人妻だった1歳年上のツィトラで、ふたりのあいだに子どもは生まれなかった。のちに愛人としてつきあっていた女性医師の異母妹にあたる戦争未亡人とも深い仲になって、1943年、57歳のときにその25歳年下のエリザベートと再婚して息子ひとりをもうけた。そして、1954年に68歳で他界したあとには、数知れない女性遍歴の結果としてかれが認知した婚外子だけで13人が残されたという。脱帽である。指揮者という職業にはとかく華やかなゴシップがつきまといがちではあるけれど、それにしてもここまでの実績(?)をものした御仁はいまい。

 
となれば、男女の愛欲劇をめぐって、まさに百戦錬磨の体験に立ってのきわめつきの表現をフルトヴェングラーに求めたくなるのが人情ではないか。その絶好の手がかりは、かれが携わった唯一のオペラ映画『ドン・ジョヴァンニ』だろう。これは1954年のザルツブルク音楽祭の公演をもとに、あらためて劇場のステージに再現したドラマを当時としては貴重なカラー・フィルムで撮影したもので、題名役のチェーザレ・シエピをはじめ錚々たる名歌手が揃い、ウィーン・フィルがバックをつとめるという世界文化遺産級の記録だ。その冒頭の序曲ではフルトヴェングラーがアップで捉えられ、間もなく世を去るとは思えないほどエネルギッシュな指揮を披露している。

 
開幕早々、稀代の色事師ドン・ジョヴァンニは新たな愛人のもとへ押し入ろうとして、立ちはだかった父親を決闘で殺してしまう。そんな暴挙のほとぼりも冷めないうちに、今度は村人たちの婚礼に行き会うと、あろうことか可憐な花嫁のツェルリーナに目をつけ、さっそく誘惑の歌を口ずさむのだ。

 
 手を取りあおうじゃないか
 「はい」と答えておくれ
 ごらん、先は遠くないよ
 さあ行こう、愛しいひとよ

 
いかにも臆面のないナンパの台詞に、この手の諧謔にかけては空前の天才モーツァルトが曲をつけたものを、あのフルトヴェングラーが渾身のタクトで演奏するとなったら! わたしは感動のあまり開いた口がふさがらず、やがてその完全無欠のスケベぶりに大笑いしてしまった……。


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