アナログ派の愉しみ/本◎内村鑑三 著『ロマ書の研究』

パウロがここに
しるせるごとき苦き経験を


イエスの没後、キリスト教の伝道にあたって最大の功績を果たした使徒パウロは、ローマ在住の信者に宛てた手紙(「ロマ書」)のなかで、「われ願うところの善はこれをおこなわず、かえりて願わざるところの悪はこれをおこなう」と記している。このパウロの二重人格について、内村鑑三はこう喝破した。

 
 余はクリスチャンとなりてのち、およそ五年を経て初めてキリストにある平和を与えらるるに至ったものである。そしてこれ以前においてはもちろん、これ以後においても、パウロがここにしるせるごとき苦き経験を味わわざるを得なかったのである。すなわちクリスチャンとなりてのちこの苦悶あり、キリストにある平安を得し後とても、多かれ少なかれこの苦悶は存したのである。今も存するのである。かくいうは決して恥ではない。また信者の威厳を損ずることではない。これは、精霊、心にはたらく時に必然起こるところの心中の波瀾、魂のうめきである。これクリスチャンを見舞う嵐である。パウロもこの嵐の襲来をしたたかに受けた人である。

 
わたしにとって、近代日本でひときわ面白い(と言うのも語弊があるけれど)言論人は内村だ。幕末の1861年に上州高崎藩士の家に生まれ、明治維新ののち、東京英語学校を経て札幌農学校に学んでキリスト教に入信する。卒業後、農商務省に勤めるかたわら結婚したものの半年で破綻し、傷心を抱いてアメリカへ私費留学することに。しかし、そこで出くわしたキリスト教国の現実は理想とほど遠く、しばしば差別の屈辱を舐め、やむなく知的障害児の施設で働きながら大学に通う(そのへんの痛烈な体験は、同世代ながら官費留学生のエリートだった鷗外や漱石の知るところではない)。

 
1888年に帰国してからは再婚して教職に就いたものの、教育勅語の奉戴式で拝礼を怠ったとして不敬に問われて失職、その渦中で妻は病死し、国内のキリスト教界にあっても孤立して、内村は無教会を標榜して著作活動に専心していく……。その孤独な歩みは、布教のためにローマ帝国を彷徨したパウロの孤高の足取りと重なるところがあるかもしれないが、第三者がなぞらえるのではなく、内村みずからそう弁じてしまうところが真骨頂だ。

 
やがて雑誌『基督教之研究』を主宰して、志賀直哉や有島武郎、正宗白鳥ら新世代の弟子にも信奉され、ようやく名声を博するようになったのちも、愛娘を病気で失った悲しみからラディカルな再臨運動に取り組んで批判を浴びるなど、内村は終生、つねに疾風怒濤のなかにあった。それはとりもなおさず、近代日本がキリスト教文明とまみえて経験した事態の縮図ではなかったろうか。

 
こうしたなか、新約聖書中の「ロマ書」について、1921年1月から翌年10月にかけて東京・大手町の大日本私立衛生会講堂で日曜日ごとに60回におよぶ空前の講演が行われた。ときに内村は61歳、毎回キリスト教の信者いかんを問わず600人以上もの聴衆が参集したという。その全容をまとめて出版されたのが『ロマ書の研究』であり、冒頭に引用したのは第33回目の講演の一節だ。速記録からでも伝わってくる凄まじい気迫はどうだろう。本人にとっても会心の出来だったようで、当日の日記にこう書き止めている。

 
 研究の題目は、ロマ書七章十五節以下、パウロが自己の二重人格を説く箇所であった。余は自己の実験に照らして彼の言を説明した。ああ、われ悩める人なるかな、この死の体よりわれを救わん者は誰ぞや。これ、わが主イエス・キリストなるがゆえに、神に感謝す。しかり、しかりである。このことを述ぶるは最大の歓喜である。これこそ真の福音である。聴衆も感に打たれたりと見え、一時は水を打ちたるがごとき静粛であった。すすり泣きの声は所々に聞こえた。会衆一同、十字架のありがたさを感じた。全堂が福音的気分に満ちた。実に喜ばしき聖日であった。

 
最後にもうひとつ、わたしが好きなエピソードを紹介しよう。ちょうどこの連続講演をはじめようとするころ、内村は望遠鏡や双眼鏡でさかんに星空を見上げて、あと少しのところで白鳥座の新星発見の栄誉を手にするところだったらしい。偉大な使徒パウロにおのれを重ねあわせるばかりでなく、さらにその先の道のりをはるかな天空に望んでいたのかと想像すると愉快だ。


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