アナログ派の愉しみ/音楽◎モーツァルト作曲『幻想曲ニ短調』

「鋼鉄のタッチ」が
天才の孤独を抉りだす


ベーム指揮ウィーン・フィル(モーツァルト)、セル指揮クリーヴランド管(ベートーヴェン)、ヨッフム指揮ベルリン・フィル(ブラームス)、ライナー指揮シカゴ響(ブラームス、チャイコフスキー)、ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(チャイコフスキー)、マゼール指揮ニュー・フィルハーモニア管(同)、メータ指揮ニューヨーク・フィル(同)、オーマンディ指揮フィラデルフィア管(ショパン)、クリュイタンス指揮パリ音楽院管(サン=サーンス、ラフマニノフ)……。

 
ソ連(ロシア)出身のピアニスト、エミール・ギレリスが行ったピアノ協奏曲の録音における共演相手であり、リストはまだまだ続く。1916年ウクライナのオデッサに生まれ、20代で国際的なコンクールに優勝し、30代からは西側での演奏もはじまり、1985年に68歳で死去するまで第一線のピアニストとして旺盛な活動を繰り広げたから、相当数のレコードが残されたのは当然だろう。だとしても、これほど幅広い名指揮者や一流オーケストラと録音を重ねたピアニストは他に存在しないのではないか?

 
のみならず、いかにも口うるさそうな面々と対峙して、小柄ながらコサック兵を思わせるいかつい顔つきのギレリスは、つねにオーケストラを圧倒するほどのダイナミズムで自己の流儀を貫いた。そこにはソ連の重工業化政策とダブるイメージもあったのか、アメリカや日本では「鋼鉄のタッチ」といったキャッチフレーズで喧伝されたから(そのせいで一部には蔑視する風潮も生じた)、わたしにとってもまずは途轍もないタフネスに感心させられる演奏家だった。ところが、である。音楽評論家・吉田秀和の『世界のピアニスト』に収められた文章を目にしてそんな先入観が覆された。

 
ギレリスが1957年に初来日したときのエピソードという。宿泊先の赤坂プリンス・ホテルで開かれた歓迎レセプションに出席して庭園をぶらついていると、向こうからギレリスがやってきて、取り巻き連中が「きのうはよく眠れましたか?」と聞いたのに対し、かれは眉をしかめてぶっきらぼうに「うるさくて、眠るどころではなかった。日本人というものは夜通し働くのか?」と答えたのを目撃したそうだ。当時近くで地下鉄丸の内線の工事が行われていて騒々しかったかもしれないが、それにしてもたいてい愛想のいい「外来演奏家」とは極端に異なる態度にひどく驚いたと書いている。

 
どうやら、ギレリスというピアニストの本性はかなり神経過敏なものだったらしい。そう考えてみるとなるほど、わたしも実はオーケストラと四つに組んだ豪快な協奏曲より、ソロでひそやかに弾かれたグリーグ『抒情小曲集』やスクリャービン『前奏曲集』のほうが深く印象に刻まれていて、こうしたデリケートな小宇宙にこそかれの真骨頂があるように思えてくるのだ。

 
なかでもわたしを虜にしたのは、モーツァルトの『幻想曲ニ短調』だ。故郷ザルツブルクを出奔した25歳のモーツァルトが、ウィーンに活動拠点を移し、父親の反対を押し切ってコンスタンツェと結婚したころに手がけたこの小さな作品は、中途で放棄された断片に同時代の作曲家ミュラーが書き足して完成させたという数奇な運命を辿ったもの。ある統計によれば、モーツァルトが生涯につくった作品のうち、ざっと92%が「長調」で、8%が「短調」で書かれているという。その比率は、プロフェッショナルな作曲家としておもに明朗で心躍る音楽を聴衆に届ける一方で、自己の内面にひそむ魔性を凝視せずにはいられなかった葛藤がもたらしたものだろう。この幻想曲も、そんなただならぬ雰囲気を湛えている。

 
ギレリスは1970年1月5日にモスクワと、同月28日にザルツブルクで『幻想曲ニ短調』を演奏した実況録音が残されている。どちらもほぼ同じ内容のオール・モーツァルト・プログラムで、第3番と第8番のソナタ、パイジェッロの主題による変奏曲などのはざまに、まるでオルゴールのようなたたずまいのこの小曲が挟まれているのだが、わたしの耳には前後の大ぶりな傑作たちに引けを取らないどころか、ずっと真に迫って聴こえる。

 
母国のモスクワでは、感興の赴くまま闊達な演奏となっているのに対して、3週間後のモーツァルトの故地を訪れての演奏のほうは、やはりホテルで十分な睡眠が取れなかったせいなのかどうか、息苦しいまでの緊張感がひしひしと伝わってくる。そして、もし「鋼鉄のタッチ」と呼ぶのなら、強靭な工作機械のそれではなく、人間の脳や心臓の手術に用いる精密メスの刃先に譬えるのがふさわしい、冷たく研ぎ澄まされた指先が天才モーツァルトの胸中にあった孤独と狂気を抉りだしていくのだ。もはや異常な演奏と言うべきだろう。

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