アナログ派の愉しみ/音楽◎ショスタコーヴィチ作曲『ジャズ・バンドのための組曲第1番』

20世紀最大のシンフォニストの
音楽に「昭和」を聴く


奇妙な言い方かもしれないけれど、わたしはソ連の作曲家、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの『ジャズ・バンドのための組曲第1番』(1934年)を聴くたびに「昭和」の気分を味わう。これは当時、レニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク)のジャズに関する委員会の求めに応じて作られたもので、ワルツ、ポルカ、フォックストロットの3曲からなり、演奏時間は合計しても10分に満たない。20世紀最大のシンフォニスト(交響曲作曲家)、ショスタコーヴィチによる最小の管弦楽作品のひとつだ。

ジャズと銘打っているものの、アメリカに発祥したジャズとはまるで異なる。無国籍のカフェ・ミュージックと言ったらいいだろうか、いかにも安っぽい音楽で、場末の映画館や居酒屋のBGMにふさわしい。それはわたしの遠い記憶と重なり、自然と胸に沁み入ってきて気持ちを和ませるのだ。地理的に隔たったアメリカやヨーロッパと違って、隣国同士の間柄は、ときに激しい戦火を交えながらも、どこかで文化の地下水脈が繋がっているのかもしれない。ショスタコーヴィチ自身、この作品に先立って、古事記や万葉集の歌に曲をつけたりもしている。

ショスタコーヴィチはまた、10代のころから家計のために、サイレント映画の上映にピアノで伴奏をつける仕事をしていた。一般大衆の日常の喜怒哀楽を受け止め、ときには鼓舞し、ときには慰謝する即興演奏を重ねながら培ったものがこの組曲に注ぎ込まれているのだろう、27歳の作曲家はにこやかに微笑んでいる。これを発表した年、ショスタコーヴィチは雑誌『労働者と演劇』に寄稿して、「私はいわゆる『真面目な』音楽に笑いの正当な権利を取り戻したいと思う」と書いた。しかし、以後、スターリンによる血なまぐさい共産主義体制のもと、たとえ笑うことがあったとしても引きつった笑いでしかない、そんな歳月のなかで作曲活動をしていくことになる……。

日本では昭和から平成へと元号が変わった年に、ベルリンの壁が崩壊し、ルーマニアやチェコスロヴァキア、ポーランドの民主化革命が続いて、やがて共産主義の盟主、ソ連は地上から姿を消す。昭和もソ連も過去の歴史となったいま、わたしが『ジャズ・バンドのための組曲第1番』のCDで好むのは、作曲家と親交のあったゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが指揮した録音(1985年)だ。まさにションベン臭い、チープな場末の響きにわくわくする。こうした演奏は、今日のデジタル世代の音楽家たちにはもはや不可能に違いない。

2018年に87歳で逝ったロジェストヴェンスキーが最晩年に来日し、読売日本交響楽団を指揮した、ショスタコーヴィチの『交響曲第10番』を聴けたのはわたしの僥倖だ。ついに独裁者スターリンが死んだ嬉しさのあまり、作曲家は興奮を抑えがたく、自分の名前ばかりか、教え子の女子学生の名前まで音型にして取り込んでしまったこのキテレツな交響曲にも、はるかに「昭和」がこだましていたのが耳に残っている。


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