アナログ派の愉しみ/映画◎今村昌平 監督『復讐するは我にあり』

かつて野球選手が
血と汗にまみれていたように


連日テレビが流すドジャース・大谷翔平の映像を眺めながら、その容姿がいかにも清潔感にあふれ、まるで映画俳優のように垢抜けているのに感嘆するのはわたしだけではないはずだ。

 
遠い記憶をたぐり寄せれば、かつて少年のころに熱狂した巨人(読売ジャイアンツ)V9時代の野球選手たちは長嶋や王、ライヴァルの村山や江夏をはじめ、だれもが血と涙と汗と泥にまみれ、陰部には「いんきんたむし(カビの一種による感染症)」のはびこる気配がブラウン管をとおしても伝わってきたものだ。そうした濃厚な体臭をまとっていた当時と較べると、いまのアメリカ大リーグで活躍する日本人選手たちはすっかり洗練され、皮膚もスベスベと滑らかで、まるで別の人種になったかのような印象があるのを一体、どう受け止めたらいいのだろう?

 
今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(1979年)を久しぶりに観た。この作品が劇場公開されたのはわたしが大学生のころだったが、飽食の時代にただならぬ反響を呼び起こしたことを覚えている。いまにして振り返ると、現実の殺人事件を赤裸々に再現して、犯罪者の心の闇の奥底に迫っていくというタイプの映画の先駆けであり、この作品自体が社会的な事件だった。ファーストシーンは、1964年1月4日。ときあたかも巨人のV9突入を間近にした年の正月に、連続殺人犯の榎津巌(緒形拳)が逮捕されてパトカーで警察署へ向かうところからはじまる。78日間におよぶ逃亡の果てのことだった。

 
巌は長崎・五島列島に生まれ、熱心なカトリック信者の父・鎮雄(三国連太郎)のもとで育つが、幼少期から非行を繰り返して戦時中を少年刑務所で過ごす。戦後には進駐軍に取り入って狼藉を働き、顔見知りの加津子(倍賞美津子)を犯して妊娠させ、そのせいで結婚することに。やがて温泉旅館の実家を飛び出した巌は、わずかな金銭を盗むため専売公社の集金人2人を殺したのを皮切りに、警察の指名手配をものともせず、大学教授などと偽って各地を転々としながら、東京で高齢の弁護士、浜松では旅館の女将・ハル(小川真由美)と母親を殺して、計5人の生命を奪う。とくにハルは巌と初対面でからだを重ねてから一途に愛し抜き、その正体を知っても動じることなく、ついにはかれの子を胎内に宿して、いつものようにじゃれあっているうち首を絞められて理不尽な最期を遂げた。

 
これをヴァイタリティと言っていいのだろうか。巌やハルばかりではない。かれが実家に寄りつかなくなったあと、義父の鎮雄と嫁の加津子がいっしょに湯につかり、顔をそむけていたふたりが、やがて加津子のほうから鎮雄の背中を流しはじめ、相手の手を導いて自分の乳房を鷲づかみにさせる……。わたしは初めてこの情景を目にしたときの衝撃がいまでもよみがえり、ひそかに日本映画史上、最もエロティックなシーンではないかとさえ思っている。ことほどさように、作中の登場人物はすべて自分でも抑えられないほどの強烈な体臭を放っているのだ。

 
「やったオレにもわからん」

 
警察の取り調べでハルを殺した動機を追及された巌が、最後に洩らす言葉だ。おそらくは率直な告白だったろう。一億総中流時代を迎えて、「巨人・大鵬・卵焼き」が流行語となった昭和元禄のまっただなかで、老若男女のだれしもが欲望の渦中に取り込まれ、まさに日本じゅう盛んに体臭を発散させているかのような状況こそが、この凶悪犯罪を引き起こしたのかもしれなかった。

 
スポーツを殺人事件になぞらえるのは憚られるけれど、ごくざっくりと要約してしまえば、当時の野球選手たちにも、やはり熱に浮かされたような生々しい存在感において、この映画が描いた人間どもと通じるところがあったように思う。そう、われわれの世代にとって最高のヒーローだった星飛雄馬は、ひたすら根性、根性、根性……で「巨人の星」をめざし、ついには自己の肉体を破壊してまでその栄光の座を手に掴む。結局のところ、その動機はやはり「やったオレにもわからん」ではなかったろうか。

 
以来60年の歳月が流れ去ったいまでは、そんな泥臭さに代わり、爽やかな笑顔の大谷翔平のまわりにつねにカネの話題がつきまとっている。最たるものが、元通訳によって違法賭博の負債の穴埋めに大谷の口座から450万ドル(約7億円)が送金されたという事態だろう。しかも、こうした前代未聞のニュースさえすでに興味が失せたかのように、テレビは大谷のつぎのトピックを追いかけて本日も汲々としている。もしこれを軽佻浮薄と呼ぶなら、軽佻浮薄の風潮はさらに続いていくのに違いない。


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