アナログ派の愉しみ/本◎武田泰淳 著『目まいのする散歩』

「すべてのことは、
たいがい無事にすむものだ」


富士山麓の山小屋に滞在中の6月のある日、好い天気に誘われてふらふらと外出する。家の門を出て自動車道路を用心しいしい横断すると、向かいの別荘から西洋人の子どもがもの珍しげに眺めてきた。溶岩の台地がむきだしになった場所で心地よい風に爽快な気分となり、富士山を背にして座禅のまねごとをしてみる。座禅のわざとらしさには抵抗感があったけれど、だれも見ていないので、しばらくあぐらを組んだり、足を投げだしたりしてから、やがて立ち上がるとめまいがきた。そのまま地べたに仰向けに寝ていると、鳥の啼き声がする。陽もよく当たっている……。

 
戦後派の作家・武田泰淳が『目まいのする散歩』(1976年)に記録した62歳のときの出来事だ。これは散歩というより、今日の表現をするならもはや徘徊老人の姿に他なるまい。3年ほど前に脳血栓の発作を起こして麻痺が残り、そのための静養も兼ねて山小屋で過ごしたときの体験を、自分ではペンが持てず、百合子夫人に口述筆記させたのがこのエッセイだ。浄土宗の寺に生まれた武田は、かねて僧籍にあるくせに座禅への抵抗感とはとぼけた話だが、こうして不如意の身体を大地に横たわらせて、知己の作家たちの死にざまに思いをめぐらせながらこんなことを考える。

 
「今、何の苦痛もなく、ただ寝そべっているだけの自分を発見したとき『恍惚死』ということが思い浮んだ。『恍惚死』といえば聞えはいいが、ボケて死ぬことである。そうなれば、自分にとっては大へん楽で、じたばたしないでもすむことである。しかし、なんぼなんでも、私のような人間が、そのような安楽な死を遂げられようとは信じていなかった」

 
深刻なのやら韜晦なのやら、はたまた本当にボケたのやら判然としない、たゆたうような文章だ。武田が戦時中、召集されて2年ばかり中国大陸へ送られたのち、31歳にして初めて書き下ろした評論『司馬遷』(1943年)の出だしはよく知られている。

 
「司馬遷は生き恥さらした男である」

 
これは漢代の軍人・李陵が匈奴討伐に向かったものの捕虜となり、武帝が激怒して一族を誅殺した際に、司馬遷は李陵を弁護したことから巻き添えを食って宮刑(男子のイチモツを切除される)となった経緯を指している。その恥辱に耐えながら司馬遷は執念深く『史記』を書いたのだ。『史記』を書くのは恥ずかしさを消すためではあるが、書くにつれて恥ずかしさは増していたと思われる――と論じた武田は、みずからもデビュー作から30年あまりを経た最晩年に至って(この『目まいのする散歩』が上梓された直後に世を去る)、あえて生き恥をさらしてのけたのではないか。のみならず、生き恥をさらすことに多少とも歓喜を見出したのではなかったろうか。富士山麓での散歩の成り行きはつぎの一文をもって結ばれる。

 
「家の門から、家にたどりつくまでの間に、まだ、二回ほど休まねばならなかった。坐りこんだまま、手の届く限り、あたりの草を、やたらにむしりとった。まだ、むしりとらねばならぬ草が沢山生えてしまっていて、庭が汚なくなることが気がかりだったからだ。『すべてのことは、たいがい無事にすむものだ』と、いつも通りの結論に達した。そして、散歩というものが、自分にとって、容易ならざる意味をもっているな、と悟った」

 
繰り返し指摘しておくと、武田は僧籍のひとである。最後の「悟った」のひと言には相応の重さがあるはずだ。わたしもいつか、こうした生き恥を堂々とさらしての散歩ができるだろうか。


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